06


「ふいーっ!走った走った~!クールダウンクールダウ~…、…ウ?」
「……」
「…た、たにざき…」

 まだ、太陽が昇りきらない、誰もが寝静まっている時間。館の入り口に、一人の男が立っていて、私を見た。息を整えるためのストレッチをやりかけた体が完全に硬直し、口まで動かせなくなる。谷裂は、運動をしやすそうな格好をしていて、まあつまり今からランニングでもするみたいな格好で、私を無言で見ていた。自分と同じような運動用の格好をしていて、自分より先にランニングをしていた私のことを、じっと。

「……、…え、え~っと…」
「…べつに構わん。勝手に続けていろ。俺は今から走ってくる」
「なんで…いつもあともうちょい後に走ってるはずじゃ…」
「今日は偶然だ。文句があるのか」
「な、ないです…けどぉ……」
「…その様子だと、やはりか。お前、俺に知られないように時間をずらして走っているんだろう」

 ぎっくりと大袈裟に肩を揺らす私に、谷裂は呆れた溜息を吐く。いや溜息じゃないな、鼻で笑う感じに近いな。私はぎぎぎと視線を逸らして、泳がせて、落ち着かなくジャージのファスナーを上げ下げした。気まずい思いをする私に構わず、谷裂はさらに続ける。

「鍛練場の利用もそうだ。他人の姿が無いのを見計らってたまに使っているな」
「ち…違うよぉ!?谷裂のとは全然違うっていうか、これは…その、ダイエットの一環でね~!恥ずかしいな…最近太っちゃって…やっぱり走るのが一番じゃない?でもちょっと走っただけでも~キツくて!それで~…え~……」
「……」
「……た…谷裂、は」
「…」
「なんでいっつも…私の見られたくないところを見ちゃうかなぁ……見てほしいところは全然、見ないくせに~……」

 八つ当たりみたいにそう言って、私はへなへなとその場にうずくまった。ああもう本当に、なんでだろう。タイミングが悪いっていうか、なんていうか。この様子じゃあべつに今回が初めてじゃなくて、前にも私がこっそり走ってるのを見て知ってたみたいだし。そうだ、「こっそり」なんだ。隠していた。隠していたつもりだったけど、本当は、本当は、だって、

「お前のそれは、一体なんだ。なんの理由があってそう振る舞う」
「……そ…それは、だからぁ…」
「走る体力があるくせに、走れない振りをする。難なくこなせるものを、苦労したように話す。その上で周囲に褒めろだの煽てろだの」
「それはぁ…」
「気に入らん」

 きっぱりと言い切った谷裂の言葉に、うずくまっていた私は震えながら顔を上げた。いつの間にかすぐ近くまでやってきていた谷裂が、しゃがみこんでいる私を見下ろしていた。随分、高い位置にある。いつもすぐ近くにあるのに、その顔。そうだった、私がしゃがめば、距離は開くんだ。そんなのわかってるはずだった。私が、下がってしまえば。私が、自分を小さく見せれば。

「……だって、褒めてほしいんだもん」
「…何?」
「『難しかったけどいっぱい頑張ったからできたよ』って言ったほうが褒めてくれるもん。『できないけど褒めてくれれば頑張れるよ』って言ったほうが、いっぱい『頑張れ』って言ってくれるし、褒めてくれるもん。最初から出来るって思われるより、ずっと」
「……」
「…」
「……本当にくだらない理由だな」
「谷裂には分かんないよ!」

 しみじみと、心底くだらなく思う人間が言う「くだらないな」っていう声に、私はうずくまっていた体を勢いよく起こして、いっきに谷裂と距離を詰める。唾でも飛ばすような剣幕で、私はただ夢中で谷裂に向かって子供みたいに喚いていた。

「谷裂には馬鹿みたいに甘えた考えに映るかもしれないけど!みんながみんな、谷裂みたいに頑張れるわけじゃないよ!自分ができるからってみんなできると思わないでほしい。自分と同じようにはできないひとを、ただの甘えだなんて思わないでほしい!」
「…」
「谷裂が凄すぎるんだよ!?……私は褒めてもらいたいもん。褒めてもらわなきゃ頑張れないもん。谷裂は褒められなくても頑張れるかもしれないけど…」

 そうだ、私はずるをしている。本当はきっと最初からできることを、難しいことのように見せようとする。自分をどうにか小さく見せる。そうすることでいっぱい頑張ったように見えるからだ。いっぱいいっぱい伸ばしたように思ってもらえるからだ。だけどそれを、誰よりも一番谷裂にバレたくなかった。だって谷裂が一番、そういうズルを許さないひとのように思うから。一番、軽蔑するような気がしたから。谷裂には分からない。分かってくれない。誰に甘えなくても、褒めてもらわなくても、ただじっと自分の為になにもかも努力できる性格だからだ。私達は正反対だ。谷裂には私が、きっとむかついてしょうがないんだ。

「私ができないふりしてかわいこぶりっこするからうざいんだ…」
「…は?」
「私が、本当は怪力女で重いもの余裕で持てるのにそれをみんなに話してないから…」
「……」
「本当は平気だったのに『もう走れないよ~』ってぶりっこしたから…」
「……、お前」
「嘘ついていっぱい褒めてもらおうとするから、腹立ってしょうがないんだ…」
「オイ、話を聞」
「わーーーんもう!!だってでっかくてちっともかわいくないんだもん!!私がなりたい『かわいい』はもっとか弱くってちっちゃくて可愛いスカートが似合うんだー!!なれないならせめてかわいいふりはさせてよ!ばかあ!!」

 うぎゃー!!って汚く泣き声をあげたら「声を抑えろ貴様!今何時だと思っている!!」と頭にげんこつが降ってきた。これにまたうぎゃー!!って泣いたら谷裂がいよいよ堪えきれなくなったみたいに苛立って私の胸倉をつかもうとして、ぴたりと止めて引っ込めて、何か言いたそうに、でもいろいろ堪えるように歯ぎしりする。しばらく苦悩するように唸った後、私の顔は見ずに、私に負けじと投げやりに言った。

「そもそもお前は!…できないわけでもやらないわけでもないだろう」
「……はあ…そう…ですっけ?」
「俺が気に入らないのは、『褒められたから』だの『褒めてもらえるなら』だの、お前が全部他人のお陰だなんだと騒ぐところだ」
「…なんでそれで怒るの?」

 本当に、わからなくて。きょとんとした声が出た。それまでぎゃいぎゃいうるさかった感情が、静かになる。波が引いていくようにすーっと。谷裂はそんな私の様子に少し罰が悪いような、苦い表情をした。本当なら言いたくなかった、みたいな顔だった。けど思っていたより正直に、谷裂は口にしてくれた。

「俺が褒めなくてもお前は『やる』し『できる』。他人の見ていないところで今のように体力をつけて鍛練もしている。他人を手助けするのも、褒められるためだけじゃないだろう。それだけで、あんなにいつも動けるものか」
「…でも、」
「それは、お前の力だ。勝手に他人の力にすり替えて、周囲もお前の見えない部分に気付かないことが、気に入らん」
「……谷裂」
「お前を見ていれば分かる」
「…、…」
「お前を、見ていたのだから分かる」

 見られたくないところ、見なくてもいいところ、ばっかりだ。そればっかり見たくせに。今までひとっつも、欲しい言葉なんかくれなかったくせに。やけに谷裂は真っ直ぐに、私を見ている。私の、見たくないところまで。陰での努力を続けていたのは、それがバレたらか弱いふりができない気がして心配だったから。でも、ただ弱くて「できない」だけじゃ褒めてもらえないから、いざというときにちゃんと「できる」ように。私の努力なんてそんなものだ。自分が気持ち良い思いをするためだけのもの。谷裂とはきっと違う。違うのに、谷裂は、なんだか…怒っている。私の努力が他人の目につかないことが。なかったことにされることが、納得いかないと。「褒められなくてもやれる子」のはずなのに、「褒められたくてやる子」だと周囲が思うこと。私がそうふるまうこと。

「……ありがとう…」
「…」
「……」
「何の礼だ」
「え?」
「俺は『気に入らん』と言っているんだ。俺がいつ貴様を褒めた」
「え?…えっ!?あれっ!?褒めてない?」
「何をどう聞いたらそうなるんだお前は!!舐めてるのか!!」
「ええ!?で、でも、だって今すごく、褒められたときと同じ、嬉しい気持ちになったよ!?」

 だってなんだか「自分がわりと認めている奴の実力をみんなが知らない・本人も認めないことが気に入らない」ってことだよね?なんか私すっごく褒められてない?あの谷裂に?じぃんとしていた私に、谷裂が唖然として、結局ますます怒った。信じられないなんでお前の頭はそんなにお花畑なんだ!?っていう困惑と苛立ちが混ざり合ったような怒り方だった。でも一度嬉しい気持ちになったら、そう簡単にその気持ちを取り消すことはできないと思う。私はちょっと前のめりに、谷裂と距離を詰めて、言うのだ。

「だって谷裂、私に怒ってるっていうか、私の為に怒ってくれてるみたいに見えるよ」
「…、」
「だから『ありがとう』なんだよ!」

 誤魔化したくはなくてはっきりとそう告げる。面食らったように言葉に詰まるけど、やがて谷裂は不機嫌…というよりも罰が悪いような、少し恥ずかしさが混じったような声を出した。「…褒めてない」って。拗ねたような声にも聞こえるかな。あまり聞いたことのない声だったから、なんて言葉で表せばいいのか、よくわからなかった。

「うん。谷裂は褒めてくれなくてもいいや。そのかわり、怒ってほしいなぁ」

 だってきっと、他の人でいう「褒める」と、同じくらい私を嬉しい気持ちにさせる。だからもう、「褒めてくれない!」って思うのはやめよう。「褒めてよ」って言わないようにしよう。頭を撫でてくれなくていい。降ってくるのが優しい手じゃなくてゲンコツでもいいっていうことにしておこう。思ったより、ちゃんと私の願望は叶っていたみたい。見てくれてたんだ、谷裂は。見られたくないところだけじゃなくて、見てほしいものも。ぜんぶ。

「……馬鹿め。勝手に言っていろ」

 谷裂の眉間に皺が寄った。不機嫌そうに。あ、褒めるも照れるも、谷裂って「怒る」なんだなあ。