※「いじっぱりな劣情」のその後




「……何をしている」

 ある朝、谷裂がいつもの様に鍛錬場に顔を出すと、そこには珍しく先客がいた。べつに他の獄卒が不真面目な訳でもないが、自分以外の者がこの時間から鍛錬場にいるというのは、彼の当たり前にこなす習慣を、日常を、不意に狂わされた事とほとんど同義だった。「谷裂ならまた鍛錬場だろう」と周囲がいつだって決めつけるくらいには、鍛錬場の主と化していた谷裂は、その先客の存在に動揺していた。部外者というわけではない。べつにこの場所を利用していたっておかしくはない。けれど、谷裂にとっては予想もしないイレギュラーだった。その人物は背筋を伸ばして鍛錬場の床に正座をしていて、谷裂が眉を顰めたのを見ても表情一つ崩さず、「おはようも言わずに第一声がそれって、どうなのかしらね」と小言を言う。その声を拾ってさらに谷裂が眉を動かすと、ようやく彼女は音も立てず静かに立ち上がった。

「お前、今日は非番だろう」
「谷裂こそ」
「俺は非番でも鍛錬場に来るんだ」
「なら私だって非番でも此処にいていいでしょ」
「出掛けないのか」
「谷裂こそ」

 出かける予定などない。そんなものは両者とも同じ。腑に落ちない谷裂を放って、は自身の髪を慣れた手つきで高い位置に結い上げると、「突っ立ってないで、入れば」と無表情に谷裂へ促す。運動しやすい服装なのか、いつもより肌色の多いの格好に若干の戸惑いはあるものの、態度自体はいつものそのものだ。いつだって馬が合わない。お互いにどこかツンとした態度を取ってしまう。鍛錬場の床に素足の音が二人分響く頃には、すっかり互いの目も合わさずに、会話は消え失せた。

 谷裂のトレーニングメニューは、工夫を凝らすよりも、ただひたすらに一つの事を突き詰める、というものばかりだ。どんなメニューも云千回と長時間続ける。体力の限界にでも挑むつもりかというくらい、ひたすらに、ストイックに。谷裂は、鍛錬場に足を踏み入れたときに味わった非日常も、トレーニングを開始するとすぐに気にならなくなった。周囲を気にせず集中できるせいもあるが、で特に話しかけることもしてこない、邪魔になるような動きは何もしなかったからだ。

 もう昼時、という時刻になって、谷裂はふと思い出したように、の方を見た。お互い干渉せず、鍛錬場の端と端でそれぞれトレーニングを続けてはいたが――なんとなく、気付いていた。彼女は、自分と同じメニューをこなそうとしているのではないか、と。直前の自分と同じように、腕立て伏せをしながらその回数を呟いている女の横顔に、谷裂は目を凝らす。呟いているその回数は、少しスピードがずれているせいで谷裂の数には劣っているけれど、それだって気の遠くなるような数字だ。腕がぷるぷると震えて、汗が滲んで、息が乱れて、それでも回数を重ねている。
 キリのいい回数を数えたとき、の腕ががくんと曲がり、彼女の体が床に沈んだ。びたん、と床に叩きつけられるような音を立てて。プライドの問題なのか、恥ずかしかったのであろう彼女はすぐ顔を上げた。そこに、タオルが投げて渡される。目をまたたく。視線の先では、谷裂が自分の分のタオル片手に、此方を見下ろしていた。
 谷裂は正直、要らない、と言われるかと思っていた。べつにそう言って不機嫌そうにタオルを突き返されても、予想の範囲内だ、と谷裂はあまり気に留めなかっただろう。けれど、珍しい事に、は谷裂から素直に受け取ったタオルへ顔をうずめて、汗を拭う。ありがとうの一言こそ無かったものの、いつもの険悪さを思えば大きな進歩だ。予想外のその素直さに、自分で仕掛けたこととはいえ谷裂は面食らった。

「…

 沈黙の末、谷裂は彼女の名前を呼んだ。呼ぶというより、ただ小さく呟く様な声量だった。は汗を拭う手を止めて、タオルから視線を上げた。谷裂と目が合って、なに、と目だけで尋ねる。

「この間の俺の言葉を、気にしているのか」

 言われて、ぴくりとの眉が動く。「この間」というのは、先日の任務で、深手を負ったを谷裂が助けたときのこと。「言葉」とは、その時に、「これくらいの任務を一人でこなせないなんて、って、私を弱いと思ってるんでしょ」と卑屈になったに対して言った、「お前がお前自身を弱いと思うなら、女がどうだの俺や肋角さんの意見がどうだのという理由に逃げる前に鍛錬に励め」という台詞だ。それを気にして、あるいは根に持って、今日この場所で、自分と同じという無茶なメニューでトレーニングしているのか。言われた通りに、「鍛錬に励んで」いるのか。尋ねる谷裂は、なんとも言えない複雑そうな表情だ。不機嫌なのともまた違う、少し、苦い顔だ。
 途中で投げ出すことはなかった。倒れ伏してもすぐに顔を上げた。ああ疲れた、だなんて文句も零さなかった。彼女のそういう真っ直ぐさを、谷裂は嫌いになれなかった。言葉を変えれば、頑固者で、負けず嫌い。やはり、嫌いにはなれない。
 けれど、彼女がその強がりを貫き通す度に、その華奢な体に掛かる負担はどれ程のものなのか。そんなことを考えてしまうのだ。以前の自分ならこうではなかったかもしれない。逆に言えば、今の自分なら、あの時とは違う叱咤の仕方ができたかもしれない。いや、間違ったことを言ったつもりはないけれど。それでも…今は、ふらふらに倒れそうなを見ると、無茶をするなよと、言ってしまいたくなる。

(こんなことを考えてしまうのも、全部、あの日、この馬鹿者が涙を流したからだ。俺の背中で、あんな弱った声を出したからだ)

 妙に歯がゆい気持ちを味わいながら、谷裂は視線を少し泳がせた。

「…そんなんじゃない」

 ぽつりと声を発したも、真似るように視線を泳がせる。少しの沈黙の間、タオルをほとんど無意識に口元に押し当てていた。気恥ずかしさを誤魔化すように、隠すように。

「…ただ、借りを返したかっただけ」
「借り?」

 少しだけ迷いながらも、は視線を上げた。谷裂も心当たりのなさに思わず彼女の方を見てしまったので、ふたり目が合う。

「肋角さんに、言わないでおいてくれたんでしょ」

 「肋角さん」という単語を聞いて、ああ、と谷裂も一つ思い当たった。確かに、「肋角さんには自分の失態を秘密にしてほしい」というの願いを、あの日谷裂は叶えてやった。初めて、肋角さんに嘘の任務報告をした。は無事に一人で任務をこなした、と。自分の手助けなど要らなかった、と。――その言葉に、本当に肋角本人が騙されてくれていたのかは、二人の知るところではないけれど。

「…べつに、お前に貸しを作るためにしたことではない。肋角さんに余計な心配をさせない為だ」

 ふいっと顔を背けて、谷裂は言う。負けじと、「分かってるわよ。だから、肋角さんに余計な心配を掛けないでいてくれて助かった、って意味よ」なんて、も突っぱねたような態度を取る。いつも通りの「ああ言えばこう言う」のようでいて、二人の間には少し、以前とは違うものがあった。それを意地っ張りな二人は認めない。ふん、と鼻を鳴らして、数秒考えて、ん?と谷裂は顔をの方へ戻す。そういえば、ところで、とでも言うように、沈黙は終わり、話は続きだした。

「どうしてお前が此処で鍛錬することが俺に『借りを返す』ことになるんだ?」
「…べつに私は、出かけるのでも、何か買って贈るのでも、なんでもよかったのよ。だけど、斬島達に聞いたら、『谷裂の好きなものは鍛錬だ』『手合わせしてやると喜ぶんじゃないか』って」
「………」
「だからアンタの鍛錬にこうして付き合ってたの」
「……………」

 適当なことを言ったのか、本気で「アレは鍛錬バカだ」と思っているのか定かでは無いが、斬島達の言い分に微妙に腹が立つし、同じ室内の端と端でお互い干渉せずに黙々とトレーニングに励み一段落ついたところである今「アンタの鍛錬に付き合ってた」と言われても、谷裂的には全然そんな気にならなかったのだが。眉を寄せて、本当、「微妙」な表情を浮かべていた谷裂をはしばらく見つめた。

「…必要なら、手合わせ、する?」
「……要らん」
「…斬島達と違って、相手にならないから?」
「違う。もう昼時だ。お前も、…」

 言いかけて、谷裂は口を閉ざす。べつに、「お前も休憩したらどうだ」とか、「食堂に行かないか」だとか、そんな誘いをしなくたっていいはずだ。何か一つ言うとしたら、「お前はお前で勝手にしろ」だとか、そんなことを言えばいい。普段の自分ならそう言うはずだった。自分で自分に納得がいかなくて、苦々しく表情を歪め、に背を向ける。どうも、あれ以来おかしい。あの日、背中にあった温もりが思い出されると。湿った声が、思い出されると。落ち着かないのだ。放っておけばいいものを、放っておくことができない。「心配」だなんて、そんなのはまるでを弱者と決めつけるようで、強がりな彼女が最も望まないことだと分かっている。逆の立場であれば、自分だって腹が立つ。「分かる」のだ。どうしてか、悔しいほど。――似た者同士だから、なんてことは、あまり認めたくはないけれど。

「……そうね。私も、昼食にする」

 聞こえた声に思わず振り返ろうとすれば、すでに相手は立ち上がって、自分の横を通り過ぎようとしていた。む、と微妙に納得のいかない気持ちになって、眉を顰める。けれど、相手が足を止めて、自分の方を見て、一言、

「行かないの?」

 と。隣に並ぶのを待つような、そんな台詞を言った途端、谷裂は面食らった。一瞬、時が止まったように固まって。それから、そんな自分の動揺に苛立つように、「今行く」と、やけくそに返事をして歩き出す。追い越されたのを、また追い越し返すように、の横をさっさと通り過ぎてずんずんと歩みを速めた。谷裂は思う。本当に厄介だ、と。自分の日常を、心を、勝手に狂わせて、乱して、こんな奴。こんな、感情。全部こいつが悪い。全部、あの日の、あの声が、涙が。
 谷裂、と名前を呼ばれて引き留められる。なんだ、とただ振り返るだけで不機嫌な声になりそうだった。

「ありがと」

 そんなのさっきも聞いた、肋角さんに言わなかったのはべつにお前のためなんかじゃ、と谷裂が突っぱねるような言葉を返そうとして、容易く引っ込んだ。意地っ張りな頑固者同士。けれど、谷裂よりはよっぽど、の方が素直だった。

「叱ってくれて、ありがと」




とどめのゼロ