「…帰ったか」
エントランスで突っ立っているその人物を見つけて、谷裂がそう声を掛けた。それが他の者で言うところの「おかえり」という言葉であることを、普段のであれば分かっていて、「ただいま」と返す。けれどその日、「ただいま」は返って来なかった。谷裂の言葉が耳に入っていないようで、ただ、ぼんやりとした瞳を何もない場所へ向けながら、突っ立っている。谷裂がそんな様子に、眉を顰めた。
「おい、何を呆けている。報告が済んでいないのなら、さっさと肋角さんの所へ向かったらどうだ」
そもそも、いつからはそこにいたのか。いつから、ぼうっと突っ立っていたのか。いつもよりも彼女の帰りは遅かった。それを、谷裂は気付いていた。いつものであれば、もっと早くに帰還しておかしくないはずの、容易い任務のはずだ。他の誰が気付いていなくとも、谷裂は知っていた。あまり他人を大っぴらに褒める等はしない谷裂だが、のことは彼なりに評価していた。「お前にしては手こずったようだな」「帰りが遅かったが、何かあったのか」そんなことを口にしても良かったのだが、の様子がおかしいことと、それらを口にしてしまえば自分がの帰りが遅いことを心配して今か今かと待っていたように聞こえるのではないか?ということを危惧して口にはしなかった。
「……ねえ、谷裂」
ただいま、の一言も無しに、ぽつりとが呟いた。谷裂の眉間にしわが深く刻まれる。谷裂に話しかけているはずなのに、やはり視線はどこかぼんやりと宙に向けられるばかりで、目が合うことは無かった。
「人間って、私達のこと視える?」
「……何?」
「私、任務が終わって帰ろうとしたときにね、一人の人間と目が合ったような気がしたの」
む、と谷裂は難しい顔をしたまま少し黙る。任務先の現世は、生きた人間たちの棲む世界だ。基本的には、「あの世」の住人の姿を、生者は感知しないだろう。けれどそれは絶対ではない。霊感の強い者や、あるいは何らかの外的要因によっては、「視える」こともある。確かに珍しいことではあるが、前例がないわけではなかった。
「べつにそこまで驚くことでもないだろう。少し霊感のある奴に姿を見られたところで、任務に支障が出ないのであれば関係ない」
「……そう、だよね」
「そんなことで落ち込んでいたのか」
谷裂の言葉に、がそちらへ顔を向ける。やっと目が合った。心なしかきょとんとしたの表情に、谷裂が、べつに後ろめたいことなどないはずなのに、少したじろぐように身を引いた。せっかく絡んだ視線を、谷裂はふいっと逸らしながら、目を見ずに言う。「その程度のことをいちいち気にするな」と。その言葉が、谷裂なりの慰めなのだろう。慰めようとして口にしているわけではなくても、無意識であっても。
は真面目で、仕事のできる奴で。真面目ゆえに、人間に姿を見られたことが、自分の落ち度であると気にして、落ち込んで……だから帰りが遅かったのだろう。だから玄関先で放心していたのだろう。――そう、谷裂は考えた。
「……そっか、そうだね。うん、気にしないことにする。ありがとう、谷裂」
「勘違いするな。くだらんことで悩む暇があるなら次の任務に備えろと言っただけだ。礼などいらん」
「あはは、ごめんごめん。わかってますよーう。じゃあ、肋角さんに報告行ってくるね」
ようやくの足が動く。執務室へ向かう彼女の背中を、谷裂は何も言わずに見つめていた。
「……おい、」
「あ……谷裂」
その日、またエントランスには二人の姿があった。あの日と同じく、帰りの遅かったを出迎えたのは眉間にしわを寄せた谷裂だ。べつに今日のはぼうっと突っ立っていたわけではない。むしろそんな暇はなく、扉を開けるなり谷裂がそこに立っていたため、少し面食らって、へらっと苦笑しながら「ただいま」を口にした。けれどその「ただいま」に、谷裂の機嫌が直ることはなかった。むしろ、自分に何か言及されるのを逸らすために遣われた言葉のようで、気に入らなかった。
「お前、最近やけに帰りが遅いだろう」
「あー……あはは」
「任務が完了したなら速やかに帰還し肋角さんへ報告を済ませろ」
「うん、ごめん、わかってるよ」
口先では謝りつつも、どうも向き合って話している感じがしない。谷裂は不機嫌そうに鼻を鳴らして、背中を向けた。腹が立つ。谷裂は、昔からの仕事に対する真面目さを評価していた。彼女のことを認めていた。斬島に対してのように、好敵手として意識するのとはまた違う。けれど、「ならば」と何事も信頼を置くくらいには、「良く思って」いた。そのが、最近どうも様子がおかしい。ぼうっとすることが増えたし、任務の帰りも遅い。仕事の内容的に、手こずって帰りが遅いわけではなさそうだ。
自分の知っているは、そんな人物ではなかった。任務の帰りに寄り道するような奴でも、自分と話しているときに目も合わせずぼんやりと返事をするような奴でもない。自分の知っている――自分の「良く思っている」が、変わっていくようで、腹立たしかった。
「……ごめん」
二度目のその声は、笑っていなかった。けれどはやり心ここにあらずといった、空っぽな声に聞こえた。谷裂は僅かに振り返って視界の端にの姿を見る。胸がざわついて落ち着かなかった。
「の任務、自分も同行させてください」
谷裂のよく通るはっきりとした声が、執務室に響いた。肋角は一瞬驚いたような目をしたが、その視線を谷裂から手元の書類へ移したときには、いつも通りに落ち着いた低い声音で、「珍しいな」と一言口にした。任務に関して、肋角の決定に谷裂が意見するというのが珍しかった。しかも自分の任務ではなく、他人の任務に対して口を出すなどというのが。
「この程度の任務なら一人でも容易いと思ったが、何か気になる点でもあるのか」
「最近のあいつは気が緩んでいるかと。腑抜けた言動が目立ちます」
「共に任務に向かい、傍で監視し、自分の手で性根を叩き直してやる……と」
「はい」
「なるほどな」
煙草に火をつけながら、肋角は納得したようにそう呟いた。煙を吐きながら、「たしかに……」と記憶を辿るように宙を見上げる。上司としても覚えがあるのだろう。の様子はおかしい。以前の彼女とは違う。さすが肋角さんは気付いている、と谷裂はひとりでに深く頷く。
「気掛かりではあるな。分かった、お前に任せよう。谷裂」
「ありがとうございます」
「だが……」
警告するように付け加えられたその二文字に、谷裂がはっと姿勢を正す。肋角はそんな谷裂をじっと見て、しばらく押し黙った。まるで、その言葉の続きを話してもいいものかどうか、彼の瞳に灯る色で判断しているように。
その結果、なのだろうか。肋角はふっと首を横に振り、「いや、まあいい。行って来い」とだけ言って、谷裂を送り出した。言葉の続きはなんだったのだろうか。それを深く考えることは、谷裂はしなかった。肋角の判断は絶対だったからだ。絶対の上司であるその人物が話さなくても良いと判断したものを、こちらが詮索する必要はない。
姿勢よく敬礼した部下を見送って、肋角は深く息を吐く。彼以外は誰もいなくなった部屋で、静かに煙が揺れていた。
「、何をしている。任務は終わったんだ。さっさと館に戻るぞ」
肋角の言う通り、それは容易い任務だった。一人で事足りるものであっただろうし、それにさらに手の抜かない谷裂が加わったことにより、予定よりもずっと早くその任務は片付いた。だが、それならそれでいい。さっさと戻って、任務の完了を報告をするだけだ。だが、は先程からやけにきょろきょろと周囲を落ち着きなく見渡し、何かを探すように、さらには帰還を渋るように、なかなか足を進めようとしなかった。この任務に谷裂が同行すると聞いたときも、えっ、とやけに狼狽えていた。そのときの表情と同じものを浮かべて、谷裂の鋭い視線にたじろいだは、口ごもったままなかなか谷裂へ理由を話そうとはしない。しばらくして、ようやく絞り出した言葉が――
「あのさ、谷裂……先に帰っていいよ」
「……なんだと?」
これには、ぷつりと谷裂の中で何かが千切れた。睨まれて、が眉を下げて苦笑する。そんな笑顔と、納得できるはずのない台詞で、誤魔化されてくれるような相手だと思われていることが何より腹立たしかった。感情的になることは確かに多いかもしれないが、に対してこんなにぐつぐつと煮え立った怒りを覚えたのは、谷裂にとって初めてだ。怒りに任せて距離を詰める。
「ふざけるなよ、貴様。一体何を考えている!最近のお前ときたら、」
「っ人間が!」
「……何?」
「人間が、気になって……」
掴みかかろうとした手を止めて、谷裂はの顔を見た。視線を逸らしながら、は唇を噛んだ。叱られることを覚悟してきゅっと縮こまる子どものように、は身を固くしていた。谷裂はというと、そんなの様子と、吐き出された言葉を、頭の中でどうにか結び付けて意味を探ろうとしばらく考え込んだ。「人間」が、気になる、と。そういえば、最初に様子がおかしいと感じたあの日も、人間がどうこうと話していたはずだ。そうだ、おかしくなったのは、あの日、「人間」が、すべてのはじまり。
「……任務の帰りに目が合った、と話していた人間のことか」
「うん……」
「あの日も言ったはずだ。それの何が気にかかるんだ。べつに姿を見られたところで、人間一人、何か脅威になるものでもないだろう」
「……」
「そいつが『化物を見た』とでも周囲に触れ回ってみろ。その生者が頭のおかしい奴だと思われるだけだ」
は真面目で、仕事に熱心で。人間に姿を見られ、獄卒の存在がバレてしまえば、特務室に迷惑がかかるとでも懸念しているのか。人間には自分たちの存在なんて、視えたところでただの「化物」だ。「亡霊」だの、「妖怪」だの、それらと同列に扱われる存在だろう。一時的に「何かいたんだ!自分は見たんだ!」と騒ぎ立てたところで、時間が経てばそんな記憶も風化する。自分たちと生者たちの世界は、交わらないところに在る。それなのに、何を気に病むのか。何が気がかりなのか。わけがわからない、という顔で谷裂がを見る。は、顔を上げない。
「まさかお前、現世に行く度、任務の帰りにその生者を探していたのか?」
「……うん」
「くだらん真似を。気にするなと言っただろう。さっさと忘れろ、そんなもの……」
「違うの、谷裂」
「……何がだ」
「なんかね、違うの。他の人間と違うのよ。初めて見たときから、私、目が離せなくなって」
黙りこくってばかりで、たまにうんうんと頷くだけだったが、そこでやっと顔を上げた。突然、饒舌に話し出した。真っ直ぐな目で、自分の見てきた特別な光の色をどうにか説明しようとするみたいに、持ちうる言葉でその「衝撃」を語りだす。「こんな人間がいたんだ、って私びっくりして」「なんていうのかな、その人間の立っているところだけ、世界から浮き出てるみたいに」「不思議な、迫力っていうか、オーラっていうか、雰囲気っていうか、なんだろう」「纏っているものが違ったの。他の人間たちとは違う色で塗られていたの」「ねえ、なんだろう、怖いような、興奮するような、鳥肌が立って、もう足が動かなくなって、目が離せなくなって……」気付いたら谷裂の方が、一歩下がっていた。のそんな瞳を、初めて見たからだ。
「忘れられないの」
それが、先ほどの谷裂の「そんなものさっさと忘れてしまえ」に対する答えなのだと、遅れて理解した。
「それで……その、気になってね、そのひとを、何度か探して、見つけて…遠くから少し覗くだけなんだけど…」
「……」
「でも本当、それだけなの。それ以上は、何も」
「当たり前だろう。"それ以上"なんてものが、どこにある」
ぴしゃりと言い切った谷裂の声の温度は冷たかった。苛立ちも度を過ぎれば熱を失うのだと、初めて知ったような気になる。それまで口を動かしていたも、その声音にびくりと身を引いた。「何度かその人物を探しに、見に行っていた」ということを伝えるときの彼女の様子は躊躇うようなものであったから、その行為が到底褒められた行為ではないことを自覚しているのだろう。それでも、彼女は谷裂に話したのだ。谷裂には、話してしまったのだ。
「……ごめん、わかってるよ」
「?今日非番だろ?『あっち』遊びに行くって言ってたし!」
「……何?現世に向かったのか?」
「べつに禁止されてるわけじゃあるまいし、目くじら立てることじゃねーだろ」
「最近よく行ってるみたいだよ。今日なんか、可愛いおしゃれして」
「なんだか、嬉しそうだったよね。いいことでもあったのかな」
同僚たちが、何食わぬ顔で話す。が、仕事の帰りに立ち寄るだけに飽き足らず、非番の日にまで、現世に。谷裂は瞬時に理解した。彼女が何を目的に向かったのかを。そして、自分以外の誰も、そのことを知らないのだと。自分以外には話していないらしい。当たり前といえば当たり前だ。そんな馬鹿げた行動を、誰も良く思わないだろう。話したところで、呆れられるに決まっている。――というか、きっと本来であれば他人にべらべらと話すようなものではないのだ。なんとなく、そう分かっていた。自分が知ってしまったのも、ほとんど無理やり吐かせたようなものであって、きっと、「そういうもの」は、内に秘めておくものなのだろう。わかっている。
だからこそ、腹が立った。何故、よりにもよって、自分だけが。そう思っても、周囲に話してやる気にもならない。笑ってやる気にもなれない。忌々しく思って零した舌打ちに、同僚たちは顔を見合わせる。
「どうかしたのか。谷裂」
ああ、どうかしている。吐き捨てた声が、誰に向けたものなのか分からなかった。
「……」
あの夜のように、エントランスにが突っ立っていた。谷裂はその姿を見て、名前を呼ぶけれど、その先が出てこなかった。彼女の手に握られた、見慣れない大きめの傘から目が離せなかった。外は――現世は、雨だったのだろう。が、視線を上げた。そこにいるのが谷裂だと分かった途端、唇を動かした。谷裂、と名前が呼ばれる。谷裂とは違って、はその先の台詞も声にすることができていた。
「あ……あのね、あれから何度か遠くから"彼"を見ていて……その、何回も、目が合ったの。でも、きっと気のせいだって思って。何も言わなかったの、お互いにね。でも、この間初めて、彼がこっちに近付いてきて、逃げようと思ったんだけど、『待って』って言われて……やっぱり彼、霊感のある人で、『自分はよく、生きてる人間以外も見えてしまうんだ』って話してくれて……私のこと、『いつも見てた』って、言われて……あ、私のこともただの亡者だって思ってるみたいなんだけど、そんな存在相手でもすごく優しく話してくれる、いいひとなの。それで……」
ぎゅ、と大事そうに傘を握りしめるは、谷裂に話しているというよりも、自分の世界に浸っているようだった。うっとりと"彼"とのやりとりを言葉にして、言葉にすることによってそれを順番にアルバムにしまっていっているような。
「……傘は、その生者のものか」
頷かれなくとも予想はついたけれど、素直にが頷いた。照れくさそうに頬を染めながら、何か特別なやりとりを思い出しながら。ぶくぶくと自分の内側で膨れ上がる感情の名前を、谷裂は知らなかった。きっと「怒り」に近いものであるはずだけれど、ただの「怒り」であるのなら、その理由はなんだというのか。今すぐその手から傘をひったくって圧し折ってしまえば、目の前の女はどんな顔をするだろう。そんな乱暴な衝動が湧き上がってくる。それでも、行動には移さなかった。
「今度、町で花火が打ちあがるんだって。『見に来たら?』って、"彼"が言ってた。傘も、返さないと」
「」
二人の目が合う。谷裂の瞳を見て、の目の色も変わる。浮かれ切っていたが、肩を縮こませた。谷裂はただ、じっと睨んでいた。その視線だけで、は彼の言いたいことを理解した。――「それ以上」なんてものはない。以前、口にした言葉だ。
「ごめん、わかってるよ」
本当は何もわかっていないくせに、そんなことを言った。
「こんなことをいつまで続けるつもりだ」
夜空が明るかった。はっと振り返ったの視線の先には、谷裂がいた。どうして、と言いかけて、口を閉ざす。花火が行われることを話したのは自分だ。当日、自分が現世のこの町に向かうことなどお見通しだっただろう。谷裂がゆっくりとの傍に近付いてくる。お互い何も言わない。のすぐ隣に並んだとき、谷裂は視線を川にかかる橋に向けた。橋の上で、まるで誰かを待っているようにあたりをきょろきょろ見回している男がいた。
ただの人間だった。背丈は谷裂とそう変わらないくらいの、人間。谷裂の目には、ただの人間にしか見えなかった。何も特別なものなんて感じられない。目が離せなくなるほどの衝撃なんてものは、どこにもない。きっとそうだろうとは思っていたけれど、確信に変わった。あれは特別な人間なんかではない。何か厄介な力で、自分のよく知るの頭をおかしくさせたわけではないのだ。
「……ごめん、谷裂」
その謝罪の意味が、いつもと違うことに、空気で気付いた。重大な決意をこめた「ごめん」だった。谷裂が何か言いかけて口を開く。すぐに何か声になるわけではなかった。声の出し方を忘れたように、何も言えなかった。
「私、やっぱり……あの人のことが…――」
どん、と大きな音。心臓を突き破ろうとするような、びりびりとした衝撃。夜空には大きな花が咲いた。暗い夜空が一瞬で明るくなる。その光に照らされたの顔は、泣きそうに困り果てた顔だった。その困り果てている理由は、あの人間に対してではなく、今この場で、自分を繋ぎとめようとする谷裂にあるということが、谷裂本人にも分かっていた。
自分の喉を掻き毟りたくなる。早く何か言え、なんでもいいから声に出せ。谷裂は自分の中にあるこの感情の答えを、まだ見つけられないでいた。
「……肋角さんが知ればどう思うか。今までの恩を仇で返す気か」
そうだ。谷裂にとって肋角の存在は絶対的で、いつだってその人の為にも自分は他者に「怒り」をぶつけてきた。「任務に支障が出れば肋角さんに迷惑がかかる。肋角さんの手を煩わせることは許さない」――今だって同じだ。自分のこの感情が「怒り」であるならば、その理由は、の「選択」が、特務室の獄卒に相応しくないから。肋角を失望させる行為だ。きっと胸を痛めるだろう。だから許すことはできない。その理由が、通用するはずだ。そう思っていた。
「肋角さんには、話したよ。そうか、って。もう決めたんだろう、って」
通用すると思っていた一つの理由が、簡単にぱきりと折れた。肋角との会話を思い出して、の目が悲しそうに揺れる。それでも、その瞳の奥の決意は濁ることはなかった。「もう決めた」から。肋角もきっと、その瞳の奥を見たのだろう。それを踏まえて、もう自分は引き留めない、と。そういったのだろう。
谷裂が、息を呑んだ。「理由」を探した。この「怒り」の理由。引き留める理由。本当は、見つけたくはなかった。
「私、もう」
が呟く。歩き出した。どん、とまた大きな音がした。誰かに後ろから突き落とされたような気さえした。谷裂が口を開く。
「っ…行くな!!」
花火の音になんて負けないくらい、びりびりとの鼓膜を揺らした。谷裂自身の鼓膜も揺らした。自分の声で、言葉で、はっきりと聞いた。肋角が困るからではない。獄卒としてどうだの、生者に執心するなど馬鹿馬鹿しいだの、そんなのが理由ではない。ただ自分が、叫びだしたかっただけだ。ずっとずっと心が悲鳴を上げていた。行くな、と。
が振り返る。驚いた顔は、すぐにくしゃりと歪んだ。
「ごめんね、わかってたよ」
それきり、は帰らなかった。探さなくていい、というのは肋角の指示だった。不思議に思っても、肋角がそう言うのであれば、「そういうもの」なのだろう。部下たちは納得して、それ以上何も言わない。「そのうち帰ってくるんだろう」と誰かは言った。谷裂も、頭の端ではそう思った。人間の寿命などたかが知れている。"あの男"の命が尽きる頃、満足してひょっこりと顔を出すのではないか、と。けれど心のどこかで、「きっと二度と戻ることは無いのだろう」とも思った。は、そういう奴だった。真面目で、真面目過ぎて、そういうものであったような気がしたのだ。
谷裂は、あの花火の夜のことを思い出す度、後悔に苛まれる。きっと、ずっとだ。
「行くな」なんて台詞を自分が口にしたことを、ずっと後悔していた。「行ってしまえ」と言えばよかった。
くだらない。馬鹿な真似を。お前なんてどこにでも勝手に行ってしまえ。自分は、お前がどうなろうと知ったことではない。――そう、言えばよかった。「行くな」なんて言葉を口にしたせいで、馬鹿みたいに思い知らされた。自覚しないで済んだはずの「それ」を、痛いほど思い知った。叩きつけられた。気付きたくなどなかった。後悔、ばかりだ。
「行くな」ではなくて、もっと他の言葉であれば、最後の言葉まで「ごめん」にしなくて済んだのかもしれない。謝ってばかりだった彼女を、最後くらいは、もっと。(本当に、後悔ばかりだ)
忘れてしまえ、そんなもの。誰かが言う。忘れられるはずがない。谷裂はもう気付いている。が"彼"に見たその特別な感情の色を、本当はずっと前から自分は知っていた。同じ色を、自分はに見ていた。あの日見た花火の光と少し似ているような気がして、それが余計に苦しかった。