それは、「あの世」に住む女の子たちには有名すぎるおとぎ話だった。不死身の怪物女が、人間の男に恋をする話。その男が命を落としたとき、悲しみにくれた怪物は自分の胸に剣を突き立てる。不死身であったはずのその怪物は、どうしてか二度と生き返ることはなかった。めでたしめでたし。悲しい話ではなかった。そこにあるのはハッピーエンドだったのだ。よかったね、と言えてしまう。けれど、どうして「めでたし」なのかは上手く言葉にできない。このお話の良さが分かるようになってからが、本当のおとななのだと、ませた感じで背伸びして話す女の子がよくいる。よさが分からないガサツな男の子に、「わかってないわねえ」ってくすくす笑う女の子もいる。私も、好きだ。あの物語。だけど、良さは、わからない。べつに、素敵だとか、あこがれだとか、そういうんじゃないのだ。でも、なんとなく「好き」だ。

「おい、さっさと来い」

 ぼんやりと足を止めて、遠くの空を眺めていると、谷裂の声が耳に入ってくる。向こうの空はやけに暗く、一雨きそうな空模様だった。おい、ともう一度声を掛けられて、なあに、と返事をする。顔をようやくそっちに向けると、谷裂が眉をぎゅっと寄せて、私を見ていた。む、とした顔だけど、彼はいつもそんな表情だ。いつも不機嫌なむつかしい表情が多い、けど、今のそれはべつに怒っているわけではないというのが、なんとなく分かっている。

「今日は雨が降ると佐疫が言っていた。その前に館に戻るぞ」
「ああ、そうなの。知ってたなら、傘の一つでも持てば良かったのに。佐疫も、持たせてくれればよかったのに」
「降られる前に仕事を片付けるから不要だと断った。第一、邪魔だろう」
「なるほど」

 事実、仕事自体は片付いているのだ。谷裂の判断は、正しいと言える。傘で片手がふさがることは、彼にとって煩わしいことらしい。私は、大人しく歩みを再開させた。谷裂も、それを確認してさっさと前に向き直ったので、私はその広い背中を眺める。そのとき、ふと、その背中が喋る。「傷が」と、心なしか静かめの声。

「足の傷が、痛むのか」
「傷?」
「亡者に喰われたと言っただろう、お前」
「ああ、あれ。もうほとんど治ってきたから、全然へーき」

 足をとめて、ひょいと片足を上げてみせる。右のふくらはぎをやられたんだった。普通に歩けている。谷裂が、ちらりと振り返って、「そうか」と言った。怪我のせいで立ち止まっていたと思われたんだろうか。ぜんぜん、そんなことはない。ただ、なんとなく足を止めたかっただけだ。なんとなく。理由もなく。足をとめたとき、私の前を歩いていた男が、何歩先で気付いて足を止めるのか、振り返るのか、少し知りたかった気持ちも、うそではないけれど。

「…おい、何故止まる」

 そのまま歩き出さずにそこへ立っている私に、谷裂が言う。

「雨が降り出すのを待ってる」
「……なんだと」

 心底理解できないというように、谷裂の顔がしかめられる。私はその表情が、まあ、きらいではないのだ。もう一度言う。「雨が、降るの、まってる」谷裂は足を止めていて、私を振り返っていて、へんな顔をしていて。怒っているのとも違う、ただ、黙って、しばらく私のことをじっと見ていた。その瞳が、私の考えを知ろうと探っている。彼なりに、わかろうと試みている。けれどきっと、彼にはむずかしい。きっと、わからないものだ。

「たにざき、わたしね」

 声に出したひとつひとつの音が、今のこの瞬間のために生まれた音なのだと、自分の耳で聞いて理解する。科白じみていて、まるで自分がおはなしの中の主人公になったみたい。それくらい、この瞬間が世界から、日常から、切り離されたもののように感じた。あのおとぎ話より、ずっと、私のつくるもののほうが、すてき。私と、谷裂しかいない、この物語のほうが。

「谷裂がどれだけ私のことを好きか、しってるのよ」

 私を、雨に濡らしたくないのだとか。どうだっていい怪我を心配するのだとか。本当はすぐに私が後ろで立ち止まったことに気付いていたくせに、少し、声を掛けるのを躊躇ったのだとか。私は、知ってる。あんなおとぎ話を、私はちっともあこがれになんてしないのだ。恋した相手のために死ねることなんて。「死」をもってしか証明できない愛なんて。ちっとも、うらやましくなんてない。そんなものがなくたって、ここにある何かを、私は愛として美しく飾り付けてみせる。
 谷裂が目を見開いて、それからすぐに、細めた。厄介な棘に顔をしかめるように。どこか歯痒そうに。それを見て私は微笑む。ばかなことを、と小さな声が言った。

「知るはずがない。お前が、知るわけがない」

 その声が、ぽつりぽつりと、雨をよんだ。そのうち、二人の肩を濡らす。足元を睨む谷裂を眺めて、そのときに胸に込み上げる感情を、きっと、愛しさ、と名付けたっていいはず。私たちは恋をする。私を殺してくれないこの世界で。あなたを殺すことのできない、この世界で。

愛するには
支障ありません