「谷裂くん!!谷裂くん可愛い!!」
「…近くに寄るな、鬱陶しい」
「谷裂くんが機嫌悪い!!可愛い!!」
「おい貴様」
「谷裂くんが怒った!!可愛い!!」
「俺の話を聞け」
「谷裂くん背ぇおっきい!でかい!可愛い!!」
「……」
「谷裂くんが黙った~!!かわいグエッ」
「谷裂!ストップ!ストップ!落ち着いて!」

 暇さえあれば近くに寄って来て、これでもかというほど煩く騒ぎ立てる女の、胸倉を引っ掴んだ。今日は多少辛抱してやった方だ。数回注意すれば口を閉じるのであれば見逃してやったものの、そのやかましい口は閉じる気配がない。佐疫が仲裁に入ったので、固く握った拳を降り下ろす寸前のところで止めてやった。

「谷裂くんが殴るのやめた!!かわいいねえ!!」

 能天気にまた目の前で笑った女に今度こそ拳骨を喰らわせようとして、やはり佐疫が止めに入った。「まあまあ、谷裂!ちょっと、ももう少し落ち着こうか?ね?」やんわりと平和的な解決を試みる佐疫の言葉に、やはりまだぐつぐつと煮え立ち抑えきれない苛立ちがつのる。そう、そうだ、このやかましく俺の邪魔をしてくる女の名。

、貴様!どれだけ俺を愚弄すれば気が済む!!」
「愚弄してないよ!可愛いものを可愛いって言って何が悪いの。谷裂くんが可愛いのが悪い」
「谷裂、谷裂、金棒を取り出さないで」
「止めてくれるな!此奴のことは一度徹底的に甚振らねば気が済まん!!」
「ま、まあまあ…俺もちょっとが何考えてるかは分からないけど…たぶん悪口じゃないし、ね?」
「つーか、谷裂カワイくなくねー?『カワイイ』ってあれだろ、小っちゃくてすげー柔らかくてすぐ死ぬヤツとかに遣う言葉だろ?」
「平腹くん……『可愛い』に条件は要らないんだよ…谷裂くんみたいな存在を真の『可愛い』っていうの」
「えー!谷裂でけーじゃん。木舌は?木舌も『カワイイ』?」
「いや木舌くんは可愛くないな」
「(えっなんかよくわかんないけど木舌かわいそう)もうとにかく、あんまり谷裂のこと怒らせないように。止めるのも一苦労なんだから」
「谷裂すぐ怒るもんなー!けどそっかー、谷裂って『カワイイ』のかー」
「『カワイイ』だよー」
「貴様ら、そこに直れ!!順番にへし折ってやる!!」
「ねえみんな俺の言ったこと聞いてた!?」

 愚弄する意図は無いだのとへらへら笑って言うが、明らかに俺を馬鹿にしている。大の男に向ける賛辞ではないことくらい、誰が聞いても分かるソレを、奴はいつもいつも笑って唱えて、俺が腹を立てる様子をさらに愉快そうに見るのだ。いつもいつもいつも。「ご飯食べてる谷裂くんかわいい」「帽子とった谷裂くんかわいい」「肋角さんのところから帰ってきた谷裂くんかわいい」「かわいい!かわいい!何しててもかわいい!」――思い出しただけで、腹が立つ!




「………おい、いつからそこにいた」
「すんすん…」
「何をしている」
「谷裂くんの香りを楽しんでる」

 鍛練場で腕立て伏せをきりの良い回数まで終わらせて顔を上げたとき、いつの間にかやってきていたが置いてあったタオルに顔を押し付けながらそう言ったので首根っこを掴んで床に引き摺り倒した。色気もへったくれもない汚い悲鳴を上げて床に転がり、同時にタオルから手は離したのでそれをひったくる。そのまま奴は暫く黙ったかと思えば、大きく手足を広げて床に大の字になった。

「わー、谷裂くんが直前まで鍛練していた床だ~!あたたかみを感じよう…」
「お前は俺に殴られるためにその口がついているのか?」
「違うよ。谷裂くん可愛いって言うためについてる」

 いらっとして床に寝ているに拳骨を振り上げたが、当の本人は身構えて目を瞑るどころか、またいつものようにへらへらと笑っている。拳に力が入り、眉間に皺が寄る。俺がどれだけ睨んでも、奴はそのにやけ面をやめない。俺を苛立たせる言葉を口にすることをやめない。「谷裂くんはかわいい」

「……一応言い訳は聞いてやろう。何故お前はそうまでして、その耳障りな文句で俺を苛立たせる?」
「耳障りな文句って?『可愛い』って言葉?…え、谷裂くんって『可愛い』って言葉口にしたら憤死する生き物?『可愛い』って言える?ちょっと言ってみてくれない?言える?絶対かわいい。言えなくても可愛いけどグブッ」

 片手でその両頬を掴み、ぎりぎりと力をこめる。上手く喋れなくなるよう口元を圧迫してやるが、「わかった、ごめん、言うから言うから」と何やらじたばたしたので、力を緩めてやる。

「あのね、谷裂くん。平腹くんは『小さくて弱いもの』って言ってたけど、『可愛い』ってなんだと思う?」
「……は?」
「谷裂くん、何かを『可愛い』って思ったことある?胸がきゅーって痛んで、うわー!うわー!ってじっとしてられなくなっちゃったこと、ある?」
「…何の話だ」
「私ね、谷裂くんが『可愛い』なの。ふざけてないよ、本当に『可愛い』なの」
「……」

 手を、離した。やっと解放されて、床から上半身を起こしたが、俺と胡坐のまま改めて向かい合う。しばらく、お互い何も言わなかった。口を閉じているを正面から見つめることは俺にとっては珍しい。……かと思えば、結局その直後、奴はいつものようにへらっと笑って、四つん這いに這ってじりじり俺に向かって腕を伸ばした。

「鍛練直後の谷裂くんの筋肉~!可愛い!かた~い!」
「……」

 俺の腕を触り、俺が何も言わないうちに、その手が俺の腹に移動した。鍛練時用の薄い衣服の上から、ぺったりと手をつく。腹筋の割れ目を、つう、と細い指がなぞった。ぞわりとした感覚に、思わず手が出る。振り上げたわけじゃない、殴ったわけじゃない。ただ、その細い肩を床に押し付けていた。珍しく、いつもの余裕ある間抜けな笑顔ではない、目を丸くして俺を見上げるが、自分の下に組み敷かれていた。自分でもその光景の異常さに、頭がついていかない。だが、それでも、口だけは正気を気取るように、声を発していた。

「この状況でも、まだ言えるか?『可愛い』が」

 雷に打たれたような表情で、はすっかり言葉を失い、やがて俺を突き飛ばすように体を起こした。何も言わないまま、その場から逃げだす。俺は俺で、べつに逃がさずに押さえつけ続けることもできたものを、あっけなく解放し見逃していた。ふん、と鼻を鳴らして笑う。
 馬鹿め。ざまをみろ。これで奴も懲りただろう。もう俺に付きまとうことはないだろう。俺を馬鹿にして、ひっついてくることはない。せいせいした。ああ、馬鹿め。男を、みくびるからこうなる。男を、甘く見るからだ。男に、かわいいなんて言葉を。

「……」

 視線を感じて、振り返る。鍛練場の入り口に、人影が見切れていた。体半分だけ隠して、じっ、と俺の様子をうかがう。俺は、また、言葉が出ない。何故お前がそこにいる。今俺に怯えて逃げて行ったんじゃないのか。呆然と視線を合わせていると、が、じり、と隠れていた体の半分を現わして、躊躇いながらもこちらに近付いた。今まで見たことのない表情をしていた。耳が赤い。

「……谷裂くん、なら……、…」

 いいよと言ったか、可愛いよと言ったか。俺は、はあ、と頭を押さえた。だが痛むのは頭ではなく心臓だ。ああ、これか。あの四文字。