愛とキスとそれだけがノーマーク



「あの、あのぉ、キスって場所によって意味が違うって聞いたことがあるんですよぉ」
「あらそう」
「だ、だからその~……今日は、いつもと違うところにキスしてもいいですか…?」

 わざとらしく媚びるような声色に、椅子に脚を組んで座っていた水銀が、視線を手元の紙束からそちらへ移す。自分の足元。床に膝をついている女に。
 予想通りやはりわざとらしく瞳を潤ませているその存在。子犬ぶって、見えない耳を垂れさせて、水銀の顔色を窺っていた。当然の如く水銀は表情を変えやしないし、瞳に温度は宿らないし、淡々とした声で、自身の飼い犬の我儘に返事をする。

「珍しいですわね。『そこ』へのキスだけでは不満がありますの?」

 言いながらヒールの靴を、くい、と少し上向きに。その靴の先にキスをしていた女が、それに促されるように顎を上げて、焦ったように眉をハの字にさせた。

「不満じゃないんです!婦長の靴にキスするの大好き!で、でも他のところにも……っていうか、靴とか足以外にもしてみたいです!キスって足だけにするものじゃないんですよぉ!知ってました!?」
「それくらい当然知識としてはありますわ」

 そう。大体の人間は唇にするソレを「キス」と呼ぶのだろうと知っている。けれど特に興味はないし、自分は人間ではないのだし、その行為に特別意味があるとも思えない。そうしたいという欲求も願望も理解はできない。してみようという気にもなったことがなかった。
 だというのに今、自分の足元にいる生き物が「したい」と言い出した。その意図は分からない。きっと理解できる日が来るとも思わない。いつだって愚かしいくらいに自分に忠実で、靴を舐めろと言えば喜んで舐めるような女の、珍しい「お願い」。
 まあいい、だとか、仕方ない、だとか。水銀は自分も気づかない内にそんな返事をしていたのだろう。床に膝をついていた女はぱっと表情を明るくした。

「やったあ~! あっ、ちなみに足へのキスは『服従』とか『忠誠心』の意味があるそうなんですよ~」
「貴女にぴったりではなくて?」
「はい!ぴったりでした! えへへ、でも今日は……別の場所に、しますね」

 「もうひとつ、したいキスがあるんです」そう言った。照れるようにはにかんで。
 水銀は、少し、芝居がかったように溜息を吐いた。仕方のないペットの悪戯を許す飼い主として肩を竦ませたつもりだろうに、まるで恋人の我儘を聞いてやっているようにも、見ようと思えば見えるのかもしれない。そんなつもりなんて彼女にはなくて、我儘を口にする側の「彼女」にも、そんなつもりはなかったけれど。
 だって二人の関係は、甘くも優しくもあたたかくもなくてよかったのだから。

「じゃあ婦長! てのひら借りてもいいですか?」
「……」
「足じゃなくて、手! てのひらへのキスってやってみたくって」
「…………」
「えっダメ!?」

 唇じゃないのか。
 そう思わされたことが腹立たしく不機嫌に、水銀は感情の乏しい表情をほんの僅かに変えた後、軽く蹴飛ばすようにして相手の体を床に転がした。キャン、と犬が鳴くような声は少し嬉しそうだった。