(2021.07.29 獄都新聞ネタ)



「こ、こんにちは……」
「あら!こんにちはぁ~!抹本くん、今日もお疲れ様ですぅ~!」
「ひえぇぇ…」

 抹本の口から思わずそんな声が漏れたのは、振り返ったその人物が怖いくらい笑顔だったからだ。いや、基本彼女は人懐っこく、笑顔であることが多い人物ではあるけれど。それでも、今日、自分に対してこんなに笑顔で挨拶してくることが、意外すぎて。もっとうらめしそうに見てきたり、うるうる泣かれたり、そういうものじゃないかと身構えていた。
 だって、そう考えてしまっても仕方ないくらいの出来事があった。抹本は、頭の中で先日のやりとりを思い出す。本当に、つい先日。


「ええっ!!婦長、抹本くんとご飯行く約束したんですかぁ!?」

 そう大きな声を出したひとりのナースを、「静かに」と水銀がぴしゃりと𠮟りつけたのが、記憶に新しい。抹本はおろおろと二人の会話を頭上で聞いていた。

「何か問題でも?」
「ううっ……問題は……ないですけどぉ~!」
「え、あ、あの、俺の代わりに、行ってくれても……」
「えっ!」

 自分の提案にパッと表情を明るくした彼女を見てホッとした抹本が少し首を動かせば、不服そうに睨んでくる水銀と目が合った。思わず飛び上がると、水銀にぎゅむっと首の後ろを掴まれる。

「あら、毒虫さん。私の誘いを断るおつもり?」
「うへぇ……で、でも、俺より、行きたがって……」

 一方は、じっと睨んでくる。もう一方は、捨てられた子犬のような目で見てくる。そんな二人に挟まれて、抹本の肩がどんどん縮こまった。小さく小さく縮こまりはてた頃、水銀が呆れたようにわざとらしく肩を竦め、「まあ、どうしてもと言うのなら……」と、自身を慕う子犬に向かって口にする。続く言葉は、「貴女も連れて行ってあげてもいい」かと思いきや――

「もっと他に頼み方があるのではなくて?」


 あの後、二人がどんなやりとりをしたのか、抹本は知らなかった。ただまあ、あの言葉を告げられた直後、このナースは怯えるよりは何故か恍惚とした表情で婦長である水銀のことを見つめていたと思う。そして今日のこの機嫌の良さだ。おそるおそる、抹本はその機嫌良さそうな笑顔に尋ねた。いいことでもあったのか、と。すると予想通り、「実は、今度婦長とディナーの約束をしたんですよお~」と嬉しそうに教えてくれた。

「よ……よかったあ……本当…よかった……。で、でも、水銀さんにどうやって…?」

 かなりの無茶ぶりだった気がする。「もっと他に頼み方があるだろう」とは。果たしてあの後、土下座でもしたのか、何かそれなりのものを献上したのか、靴でも舐めたのか。そんな想像を巡らせる抹本に、当の本人はにこにこと、若干照れが入りながらも、「いやあ、ないて頼んだら『いいよ』って言ってくれたんですよぉ~♡」と答える。泣くほど?と少し抹本が戸惑っていると、いつから聞いていたのか、診察室から顔を出した水銀が、たしなめるようにそっけない声で口を挟んだ。

「おかげでこちらは大変ですわ。彼女、余所行きの服一つ持っていないんですもの。まずそこから見繕わないといけなくって」
「えへへ、お食事の前に一緒にお洋服見に行くんですよぉ~♡」
「当然でしょう。連れて歩く限りは、私のプライドに関わりますもの。多少は着飾っていただかないと」
「うへぇ……で、でも俺、あのとき全然、たいした服装じゃ……」
「毒虫さんはそのままで結構ですので」
「ええぇ……?」
「楽しみですぅ~♡婦長とお出かけも、婦長好みのお洋服選んでもらうのも!」

 るんるんご機嫌な彼女に、水銀は呆れた風に溜息を吐いて文句を言っている。まずはああしないと、それの準備をしないと、これも買わないといけない…、そう、つらつらと。抹本はそんな水銀の様子を見上げながら(これは実際に口にしたら怒られるような気もするけれど)……楽しそうだなぁ、と思う。口ではそっけなく言いながらも、本人と同じくらい、浮かれているように見えるなあ、と。水銀の表情の変化は分かりにくいけれど、なんとなく、だ。

「…わ…わざと俺と出かけること教えて、『連れてってほしい』って言わせたんじゃ……え、えっと…最初から彼女、連れていくつもりで……いろいろ、自分好みの格好させる、口実……」
「……毒虫さん?」
「ひぃっ!?」

 静かに名前を呼ばれて、やっぱり怒られる!余計な詮索しすぎた!と怯えて抹本が飛び上がるけれど、水銀の反応は抹本の想像していたものとは違っていた。機嫌が良いおかげもあったんだろうか。

「べつに連れていくだけなら本人の返事なんて確認せずに連れていきますわ。彼女に拒否権ありませんもの」
「はぇ……」
「それよりは、『啼いて私にお願いするところ』が見たかっただけですので」

 そこを勘違いされると何か困ることがあるのか、何かプライドに障るのか、涼しい様子できっぱりと言い切った水銀に、抹本は「はぁ…」「へぁ…」と気の抜けた返事をするほかなかった。そして一連の会話を耳に入れているのかいないのか、水銀を慕う「彼女」は、にこにこと、見えない尻尾を振って、抹本と水銀のやりとりが終わるのを行儀よく待っていた。それを見ていると抹本の頭に小さな疑問が浮かぶ。さっきの台詞、「泣いて」?「鳴いて」?どっちの字をあてるのだろう。どちらとも微妙ーにニュアンスの違う気がしたが、それはまあ、確かめようがない。どんな「頼み方」をしたのだろう。やっぱり確かめようがない。ただまあ、本人たちが満足そうなので、それでよかったのだろう。自分もこれ以上巻き込まれはしないのだし。抹本はほっと息を吐いて、楽しげな予定を立てる二人を見た。



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