先生、先生。きっとわたくしはもう駄目なのです。駄目になるのだと思います。毎朝毎晩、昨日と何も変わらず目が覚めてしまったことに絶望し、眠りに落ちることに絶望し、空が青いことに腹を立てて、雨が降り出すことに涙が止まらないのです。入院してしばらく経ちます。先生の診察を受けてしばらく経ちます。けれどいっこうによくならないではありませんか。先生、先生はわたくしを治してはくれないのですか。壊れた部分を、おかしくなって腐ってしまった部品を、直してはくれないのですか。おかしいのは、ここ。ここだけです。体の中身、心臓の部分が、内側が、もう毎日毎日、痛んで仕方がありません。さあどうか今日こそはもっとよおく診てはくれませんか。あなた様しか治せるひとがいないこと、わたくしはよおく、よおく知っているのです!


「先生、いい加減あの患者をどうにかしたほうがいいのではなくて?あれはもう、誰が診たって手の施しようがないのでしょう。きいきい毎日泣き喚いて、先生、先生、と診察の邪魔ばかり」

 水銀のその小言を、赤黒い汚れのついた白衣を纏った大男は苦い笑いで聞き流していた。困ったようなのは「ふり」だけで、ちっとも本気であの患者を放り出そうとはしない。手放そうとはしない。呆れたふうに水銀が溜息を吐いて、ちょうどそのとき診察室の扉が叩かれる。乱暴に、何度も、しつこく。水銀が不機嫌そうに眉を顰めた。

「今は休診中だとお伝えしても?」
「いいや。通してくれて結構」
「あらそう。ではどうぞ、後は御勝手に」

 水銀が扉を開けると、一人の女が勢いよく部屋に雪崩れ込んだ。扉を開けてやった水銀には目もくれず、さっさと部屋の奥にいる男の元へ向かっていった。それを見送って、水銀は肩を大袈裟に竦め、診察室を出た。時間外労働をしてまで相手をしてやるような患者ではないのだし。その患者は丸椅子に座る「先生」の膝元へ縋りつくと、わあわあと泣き続けた。

「先生、どうしてわたくしの病を治してはくれないの。心臓が壊れてゆくのをただ大人しく受け入れろとおっしゃるの。わたくしに、死ねとおっしゃるの」
「まさか!そんなことは微塵も思っていないとも。けれど、君のそれはとても難しい病気でね」
「先生なら治せるくせに!どうしてそんなことおっしゃるの、見捨てるつもりなのだわ、なんてひと!」
「落ち着きなさい。ああ、そうだ、さあ、手を出して。不安であれば私が握っていてあげよう」

 そのごつごつした大きな手のひらが、女の小さな手を包む。黒手袋越しにしか触れないけれど。女は涙をいっぱいに溜めた瞳で、男を見上げる。目深に被った頭巾で目元など見えない代わり、安心させるように男の大きな口が弧を描く。女のぐずる声が徐々に小さくなる。泣き疲れたように憔悴しきった声で、先生、と呼んだ。

「少し、よくなりました。ありがとうございます」
「それはよかった」
「やっぱり先生は凄い先生ですのね。一瞬で症状を和らげてしまうなんて」
「これくらいは。主治医として当然だとも」
「やっぱり先生なら、治せるのではなくて。どうしてこんな、応急処置のようなことしかしてくださらないのですか」

 わたくしは、先生に、なおしてほしいのに。また泣き出しそうな気配を感じ取りながら、「先生」と呼ばれる大男は歯を見せて笑う。ギザギザと尖った、それはそれは凶悪な、異形の。

「すまないね。私も手を尽くすつもりだけれど、まだ、もう少し完治には時間がかかるのだよ」

 まあ、君の頑張りのおかげで、本当に、"もう少し"だろう。きっと、時間の問題。男が、女の髪を撫でる。その手つきはとても、「先生と患者」とは思えない、情を孕ませたものに見える。本当、どんな種族にとっても厄介な不治の病だ。愛だの恋だの、まったくもって厄介な。

生肌の縫い目