「うわあ……きれい…」

 巨大な水槽の中をふよふよ泳いでいるクラゲに目を奪われて、足が止まる。光の当て方にもこだわったこの広いクラゲの水槽が、この水族館の目玉らしい。透明な傘がふわりと水中に広がって、暗闇の中の月明かりみたいに綺麗。幻想的、って言葉はこういう光景につかうんだろうな。生き物ってことを忘れそうになるけど、生き物だからこそ興味深い。触手一本一本の動きにも目を奪われる。ほう…っと思わず水槽に手をついて食い入るように見惚れて、時間さえ忘れそうになった。ううん、もう実際たぶん、しばらくそうしていたのだと思う。我に返ってハッと隣を見れば、いつの間にかぴったりとすぐそこに、災藤さんが立っていた。驚いて飛びあがりそうになって、すんでのところで声を抑える。

「すッ…、…すみません…!」
「おや。私に構わず、ゆっくり観賞して」
「え、いえ、そんな…じゅうぶんです!お待たせしてすみません…」

 おそらく私より前を歩いていたと思うのに、私が隣についてきていないことに気付き、傍までやってきて足を止めていてくれたんだろう。それまで、「災藤さんに失礼のないように!災藤さんの観賞ペースにきちんと合わせられるように!」と心がけていたはずなのに、つい、楽しみにしていたクラゲコーナーに我を忘れてしまった。

「先に進みましょう!あっちにも珍しい魚がいるらしいですよ」
「クラゲ観賞はもうおしまい?」
「お、おしまいで大丈夫です!」
「私がもう少し見ていく、と言ったら?」
「そ……それは…私も一緒にもう少し、見ます…」

 くすくす笑って、ではそうして、と災藤さんが大きな水槽を見上げる。水槽の照明にそっと照らされる横顔が綺麗で、今度はクラゲじゃなくってそっちに見惚れてしまいそうだった。けれどそんなことに気付かれてしまったら恥ずかしくって仕方ないので、私はパッと首を捻って、真似るようにもう一度水槽を見た。私がクラゲの水槽を気に入っているのを分かっていて、の災藤さんの提案だ。しっかり見ないともったいないし、申し訳ない。ふよふよと水中を漂うクラゲたちは、私たちに見つめられているのなんてお構いなしのようだったけれど。

「ここの水族館は気に入った?」
「あ…はいっ!もちろん!連れてきてくださってありがとうございます!」
「そう。それは良かった」
「ええ、もう、私、それはそれは楽しみにしていて……あ、事前に抹本と一緒に入念にシミュレーションもしました!水族館に行ったら見るべき珍しい魚や観察ポイントをたくさん教えてくれたんですよ!」
「抹本と?」
「はい!」

 鞄からいそいそと折りたたんだメモを取り出す。うん、すごく折りたたんだ。開くと巻物みたいにずらーっと長くなっている紙には、抹本の細かい字がびっしりと書き連ねられている。海の生き物たちの生態、豆知識、要観察ポイントがずらりと。見た目の特徴から繁殖の仕方まで。(おかげでさっきから水槽横の解説プレートを見ても、「あっ抹本が言ってたやつ」って思うことばっかりだった)そんなに書くことある?っていうくらい書いてあるけど、たぶん抹本は楽しんで書いてくれているし書き足りないくらいだったんだろう。私の手元を隣から覗き込んだ災藤さんは、感心した様子で小さい文字に頷いていた。

「抹本のおかげで予習はばっちりです。すべて頭に叩き込みました」
「それは頼もしいこと。お前も抹本も、勉強熱心なところが似ているから」
「いえ、そんな!災藤さんと水族館に行けるなんて光栄で、同行するのに恥ずかしくないように、です!」

 そう言いながらも、褒めてもらったことが素直に嬉しくてちょっと調子に乗って、胸を叩く。協力してくれた抹本に心から感謝。災藤さんは口元に笑みを浮かべて、私の上機嫌な様子を眺めていた。

「同行…ね。なんだか無粋な言い方」
「…え?」
「いいえ、なんでも」
「へっ…あっでも抹本、水族館とか動物園とか好きそうですよね」
「…それはたしかに。今度は抹本も連れて、皆で来るのもいいかもしれない」
「はい!きっと楽しいですね。ああでも、平腹とか魚たちを見ても『あれ食える?』なんて言ってばっかりかも」
「賑やかなお出かけになりそうだけれど」
「はい!」
「けれど、『今度』の話でしょう?」

 含みのある、試すような言い方に、私は間抜けにもまた「へっ?」って声を出してしまいそうになる。災藤さんは、口元に笑みを浮かべたまま。私をじいっと見つめて。「口元に笑みを浮かべたまま」って、いいかえれば、口元しか笑っていなくて、目が笑っていないのでは?と、すこし、そんな思いがよぎる。いや、でも、怒らせるようなことはしていない…はず。

「こ…今度、です、ね。今度のはなしです」
「ええ、今度」
「今度はみんなで…そう、みんなに今日のことを話したとき羨ましがられて……あっ!そうだ、そういえば私田噛にお土産頼ま、」
「『今日』は、私と二人きり」

 災藤さんのせりふに、目をまたたく。言葉に詰まって声が出なくなった私に追い打ちをかけるように、災藤さんが人差し指を立てて、私の唇に軽く触れた。

「デート中にそう何度も楽しげに他の男の話をしないの。私を拗ねさせるつもり?」
「…、……デ、っ…」
「デート、と。最初にそう誘わなかった?」

 急激に体温がぐっと上がった気がした。特に顔なんて、火が出そうなほど。顔を赤くして、ぱくぱくと口を動かす。私自身が水族館イチめずらしい魚になってしまいそうなくらい。でも、だって、そんな、それは、だって。言葉が出ない。たしかに、この日の約束をしたとき、災藤さんは言った。忘れもしない。よかったら今度、前から行きたがっていた水族館に、と言ってくれて。嬉しくって飛び上がった私に囁いた。「これは、デートのお誘いなのだけれど」と、悪戯っぽく。そう、だってあれは、まさか。思わず俯いた私に、災藤さんはまだ、いじわるを言う。

「デートの下調べも、抹本と二人で楽しんだようで」
「か…からかわないでください……災藤さん…」
「からかう?私が?とんでもない」
「だって、私なんかが、災藤さんと…デ、デート…なんてそんな、恐れ多い…」

 からかってるだけ、そんなつもりじゃないはず。立場をわきまえて、うぬぼれなんてしちゃいけない。ただの上司と部下、優しく甘やかされているだけで。いろんな予防線を自分の中で張り巡らせて、恐々と、俯いていた顔を上げる。言葉をそれ以上重ねるわけでもなく、災藤さんが私をじっ、と見つめる。目を離せなくなって、しばらく視線が絡んだ。時間が止まったみたい、と思うのに、視界の端の水槽で、クラゲたちが自由に水中を泳いでいた。災藤さんは、何も言わない。これ以上は、自分で考えなさいといわれた気がした。もうわかっているんだろうから、これ以上は、必要ないでしょう?って。

「……ほ、本気にしますよ」
「ふふ…どうぞ。本気にしてもらえないと、私が困ってしまうから」
「ほ…本気、に、していいんですか…」
「ええ、もちろん」

 くすくす、笑う声に、また私は徐々に俯いてしまう。顔が熱いまま。災藤さんの顔が見ていられなくって。

「水族館で俯いて歩いたら、魚たちが見えないでしょう?」
「……だ、だって、恥ずかしくなってしまって…!さっきまで私たちが見ていたはずなのに…なんだか、逆に今、魚たちが私たちのこと見ているような…」
「おや、それは都合の良い。見せびらかして歩きましょうか。私の可愛いひと」

 ああ、もう、ああもう、恥ずかしくってくらくらしてきた。顔を覆ってしまいたいのに、災藤さんにその手を取られてしまう。ああ、隠せない。もうちっとも隠し切れない。視界の端には、ふわりと動く海の生き物。ちっぽけな私の恋心の行方を、ガラス越しに見守っているような気がした。



水族館×漂う×恋心の行方