「お…お背中、流します!流させてください!」

 困った。本当に困った。

 確かに今日の俺ときたら、またに心配かけてしまうくらい疲れて任務から帰ってきた。そんなくたびれて格好悪いところはもう見せないようにしようと思っていたのに、どうもうまくいかなくて、に気づかれてしまった。はらはらと心配そうに俺を気遣って、荷物持ちましょうか、お腹減ってないですか、何か自分にできることはありませんか、と健気に寄り添ってくれた。本当に自分にはもったいないくらいの良い子だ。疲れていたのもあって、その姿が天使か女神かにしか思えなかった。聖母かもしれない。だけど彼女がそんな存在だからこそ、優しさに甘えてぐずぐずに溺れるわけには…、と妙に理性が働いた。結局笑顔を浮かべて、大丈夫だよと答え、ついでに、とりあえずお風呂に入ってくるね、とその場を離れようとする。それを見送る彼女が、まだ心配そうな、しゅんとした顔をするものだから心が痛む。「ゆっくりつかってくださいね」「でもお風呂で寝ないよう気を付けてくださいね」と気遣いの言葉に俺は振り返って笑う。大丈夫だよ、ともう一度。


 その結果が、これだ。

「いやいやいや、待って、!ど、どうして、」
「お疲れの佐疫さんに、何かできることはないかと思って……私、こんなことしかできませんが、少しでもお役に立てるのであれば、なんでもします!」
「なんでもって…! だ、だめだよ!?君はそんなことしなくていいから!そんなことさせられないよ!」

 ため息まじりに大浴場に足を踏み入れてほんの数分後、呼ばれた声にハッとして入口を振り返ったら、そこに立っていたのはだった。いや、ここからだと曇り硝子越しの人影しかわからないけど、声で判断はつく。相手は、脱衣所から、浴場に足を踏み入れようと入口の扉に手をかけている。もうそれまでの、疲れからくるため息なんて吹き飛んで、俺は混乱した。どうして。なんで。何が起こっているのか、起きようとしているのか、焦りつつも頭のどこかでは予想がついている自分が憎らしい。いや、そんなことが、あっていいわけがない!どうにか扉越しに説得しようと、俺は声を上げる。その声が浴場に響いて、なんだか余計にこの状況の異常さを意識してしまう。

「とにかく、落ち着いて、一旦…!」
「でも私にできることはこれくらいしかないと思うんです。私、お役に立てそうなことが見つかって嬉しかったんですが…」
「いや、『これしか』どころかじゅうぶんしすぎっていうか……ど、どうしたの!?誰かに何か吹き込まれた!?田噛!?は素直で人が良いからそうやってからかわれて…」
「いえ…災藤さんから助言をいただいて」
「災藤さん!?」

 予想外の人物の名前に俺はそれ以上の文句が言えなくなってしまう。面白がって冗談半分でをけしかけそうな人物に心当たりがあったけど、「災藤さんが」と言われてしまうと、それが冗談なのか純粋にご厚意なのかもうなんの判断もつかない。いや、災藤さんに限って、いや、でも、これはさすがに…。
 俺が固まったままぐるぐると思考を巡らせていたら、そうっと扉が少しだけ引かれる。けしかけた人の思惑がどうであれ、は本気だ。本気で入ってこようとしている。

!待って、本当に、それ以上はちょっといろいろとまずい…!」
「あっ!だ…大丈夫です!私、ちゃんと着てるので…裸とかじゃ…」
「えっ、あ、うん…、…いや、俺は裸なんだよ!?」
「あっ……大丈夫です!じ、じろじろ見るような失礼はいたしませんので!」

 そういう問題じゃないんだ、と叫びたくなるのをぐっとこらえる。いや、裸やバスタオル一枚で立たれていたら俺は今よりもっとうろたえていたと思うから、身軽な恰好だろうとはいえちゃんと服を着てくれているならまだ良いような気もする。けど、やっぱりそういう問題じゃない。

「佐疫さん……あの、私、ご迷惑ですか…」

 なんてずるい聞き方をするんだろう。俺が断れないのをわかって言ってるような気がしてしまう。(そして俺はそんな気がしたうえで折れてしまうんだ)







「……力、強くないですか?」
「う、うん……大丈夫だよ、ありがとう……」

 さっきまであんな攻防戦を繰り広げていたのが噓みたいに、ぎこちない空気の中、が本当に俺の背中を泡のついたタオルでごしごし洗っている。ひとに背中を洗ってもらうなんて経験めったにない。妙なむずがゆさは拭えそうになかった。しゃんとした背中ではなく、いろいろと複雑な心境によって少し丸まってしまっている背中に向かい、はどう思って、手を動かしているのだろう。こっちは本当に裸で、なんというか、無防備すぎる状態で。すこし首を動かせばと目が合うと思うと、俺はどうしたって落ち着かない。

「ごめん、。気持ちはすごくうれしいんだけど、やっぱり、恥ずかしいっていうか…落ち着かないっていうか…」
「す…すみません……」
「あ、ううん、迷惑とか嫌だとかじゃなくて……すごく嬉しい、けど…」
「はい……」
「…嬉しすぎると、困る、っていうか……」

 俺からは振り向かないようにしていたっていうのに、俺の言葉に、が手をとめて、すっと首をのばして俺を覗き込もうとする。もうずいぶん恥ずかしい思いをしている気がしていたけど、もっと自分の顔が熱くなった気がした。

「私は佐疫さんが嬉しいと、うれしいです。すごく」
「……俺が、困っててもうれしい?」
「困っても『嬉しい』と思ってくれてるなら、うれしい、です」

 いじわるな拗ね方をしたのに、ぶれない言葉を返されてしまう。かなわないな、やっぱり。眉を下げて苦笑すると、がうれしそうに笑う。ああ、今の俺の「困ったような笑顔」は、「嬉しすぎて困る」の顔だと判断されたらしい。たぶん正解だ。
 が優しく丁寧に俺の肩にお湯をかけて、泡を洗い流す。すっかりの服も濡れて張り付いてしまっているけれど、構う様子はなかった。

「ありがとう、
「あ……いえ!佐疫さんのために何かできて、嬉しいです」
「気を遣わせてごめんね。仕事の疲れなんてもうすっかり吹っ飛んじゃったよ。…うん、いろいろ、びっくりで、それどころじゃなくなったから……」
「ほ、本当ですか…?」
「うん、本当に。気持ちよかった」

 背中、流してくれてありがとう。首だけで振り返って、を見る。はまだ手に泡のついたタオルを持ったまま、何か言いたげだ。首を傾げる俺に、が「あの!」と少し大きい声を出した。声が反響して、震えている。

「背中……だけで、いいんですか…」

 えっ、と俺の声も肩も跳ねる。ほんの少しの躊躇いの色。だけどそれを覆い隠すような熱っぽい瞳が、俺を見ていた。ごくりと喉を鳴らしたのが、お互いにきっとわかった。後ろから伸びてきた細い指を、一瞬の間を置いて、きゅっとつかまえる。あっ、との唇から零れた声。残念がるような声に聞こえて、ああもう、この子はまったく、とたまらなくなる。ぞっとするくらい、俺の理性を溶かすのがうまいんだから。だけど、俺はそっとその耳元に唇を寄せて、「だめだよ」と囁いた。おあずけだよ、とでも言うように。続きはなし。ここでは、なし。

「……先に部屋に戻って、ベッドで待ってて」

 俺の言葉に、かあっと赤くなって大人しく頷く。そんなの頬にキスをしながら、ああ本当に疲れなんて消えちゃってるなあ、と他人事のように思った。本当、かなわないな。(天使でも女神でも聖母でもない、俺の可愛い恋人)