抹本へ届け物があって病院を訪れて、待合室を抜けた先、階段から降りてきた女の子と、目が合った。え、と声に出そうになって、それはすぐに相手が重ねた言葉で飲み込まれる。
「あなたとおんなじ服を着たおにいさんが言ってたんです。ピアノが弾ける同僚ならいる、って」
ああ、だからか。俺の姿――いや服装を見るなり声を掛けてきたのは。文脈的に、院内で見かけた抹本に同じように彼女は「ピアノ弾ける?」と聞いて、抹本がそれに首を振る際、申し訳程度に俺のことを話したのだろう。小柄で、自分より少し幼い見た目の相手に、俺は一呼吸置いてから、背筋を伸ばして挨拶をする。
「こんにちは。獄卒の佐疫と言います。あなたは……この病院の患者さんでしょうか?」
「ピアノ、弾けない?」
一度、二度、まばたきを繰り返して、そのひとを見る。その少しの沈黙の間に、再度、「ピアノ、弾ける?弾けないの?」と首を傾げられた。心なしか、がっかりしたような表情で。ああ、申し訳ない、ちょっと面食らってしまった。失礼な反応をしてしまったかもしれない。
「そんなに人前で披露できるような腕前ではないんですが……少し習っているんです」
「じゃあ、弾けますか?」
「はい。少しなら」
「じゃあ、ピアノ弾いてください!上の階にピアノがあるから!」
「え……ええと、病院の方に許可を取ってからにしませんか?あの……」
俺が階段に足を乗せることを躊躇っていると、そのひとはわざわざ俺の背中に回り込み、階段に向かって押すみたいに体当たりをしてきた。どうしよう、少し困った。よろめいて、つい足を一段上の階段へ乗せると、そのひとは俺の顔を覗き込んで、さっきまであまり変化の無かった表情をぱっと笑顔に変えた。
「私、ピアノ聴きたいの。私、ピアノ弾けないの!」
はずんだ声。俺は目をまたたいた。よく見れば彼女には両腕が無かった。
「あ……そうだ、ご、ごめん、佐疫…。この間、あの女の子につかまって、しばらくピアノ弾かされてたって……」
抹本が、病院を訪れた俺に対して少し申し訳なさそうに、おどおどしながらそう言ってくる。「あの女の子」といわれて頭に浮かんだ存在に、「ああ、うん」と頷いて、笑った。くるくると話も表情が変わって、あんまりこちらの話は耳に入れてくれないけど、ピアノを弾いている間はすごく楽しそうだった、あの。両腕のない、あの。
「ちょっとびっくりしたけど、悪い子じゃないみたいだったから。簡単な曲しか弾いてないのに、すごく喜んでくれたんだ」
「そっかぁ……よっぽどピアノが好きなんだね…。俺が『弾けないよ』って言ったらすごくがっかりされたから……」
「病院中の人に聞いてたのかな?」
「う、うん……そうみたい。あの子、失くした腕がちゃんと生えてくるまでここにいるんだって。先生が言ってた」
「そうなんだ。あ……そうだ、名前……」
名前を、聞いてなかったな。そう思った直後、薬品庫の扉からドン!と音がした。抹本が驚いて、悲鳴を上げて飛び上がる。机の上の試験管の中身が揺れた。誰かが、外側から扉に向かって体当たりしたような、そんな音だった。
……ん?体当たり? 思い当たる相手に、俺は慌てて扉に駆け寄った。
「ピアノのおにいさん!今日もピアノ弾いてくれますか?」
扉を開けるなり、なだれ込む様に室内に入ってきた女の子が、俺の顔を見て笑顔になる。ドアノブを掴むことができなかったらしい。それでも、俺が中にいると思って、中に入りたくて、渾身の体当たり。某怖い婦長さんに怒られそうな振る舞いだけど、大丈夫なんだろうか。当人はそんなの頭に無いようで、俺のことをきらきらと期待の満ちた目で見上げている。なんだか、その目で見つめられると弱い。
「……僕の演奏でよければ」
「い、いいの?佐疫…」
「うん。持ち場に戻るまで、まだ時間はあるから」
「弾いてくれますか?おにいさん」
「はい、もちろん。あ、ただ一応やっぱり水銀さんに許可を頂いてからの方が……」
「嬉しい!行きましょう行きましょう!」
あ、聞いてないな。そう思いながらも、苦笑いを浮かべるだけで、彼女のその楽しげな様子に水を差すことはできなかった。きっと彼女の腕が治っていれば、俺を引っ張って連れ出していたんだろうな。今の彼女は代わりに、ぐりぐりと頭を俺の背中に押し付けて、急かしてくる。俺の足は前回よりも躊躇わず、階段へ向かっていた。
「こんにちは、ピアノのおにいさん!」
その元気な挨拶から始まって、その日も俺はなんやかんやと彼女に促されるまま、ピアノの前にいた。俺がピアノを弾く間、後ろに立って聞いていたり、ソファーに座っていたり、すぐ傍にぺったりと座り込んで俺の膝にくっついていたりとさまざまだ。うっとりした表情で聴いているのをちらりと視界に入れては、少し、嬉しい気持ちにもなる。
「本当にピアノがお好きなんですね」
「うん。でも、だって、おにいさんが上手いから」
「ふふ、ありがとうございます。今度来るときは、何か違う曲を演奏できるようにしておきます。せっかく聴いてくれているのに、いつも簡単なものしか弾けていないので。今度はちゃんと楽譜を持って来ようと思って」
何気ないようで、確実に自分がこの状況を楽しんでいることがばれてしまう台詞。包み隠さずにぽろっと零れたその言葉に、彼女は目をまたたいた。胸の内のどこかで、傲慢にも、「うれしい」と言ってもらえるような気がしていた俺は、そんな反応に少し戸惑う。やがて彼女は視線を落とす。俯いた――と、いうより、自分自身を見下ろした。
「……私、明日で診察最後だろうって先生に言われているので……」
呟かれた声に、あっ、と自分の思い上がりが恥ずかしくなる。見れば、彼女の腕はほとんど、手首のあたりまで生えてきていた。ああ、そうだった。ここは病院で。自分はただ、彼女が病院で過ごす、ついでの暇潰しに偶然都合よく現れただけの赤の他人だ。彼女が退院してしまえば、この病院に来ることがなくなれば、会うことも無い存在。
「そうなんですね。退院おめでとうございます。すみません、僕の演奏ももう必要なかったですね」
「……もう弾いてくれないんですか?」
俺の顔をじっと上目遣いに見上げて、そんなさみしそうな声を出す。喉元まで出かかった、感情や言葉をぐっと飲み込んで、俺は苦笑をするだけに留めた。
「せっかく腕が治るんですから、是非、ご自身でピアノを弾いてみてください。あなたならきっと、その楽しさを気に入ってくれると思います」
微笑んで。本心からの言葉のはずなのにどこかしらじらしい、どこか、未練がましい、強がりみたいだ。その腕があるなら、僕の演奏は不要ですよ。僕の演奏を聴くより、ずっと楽しいです、きっと。無理矢理、自分を納得させるみたいに。でも、そのとおりなんだ。俺が、気付いたら勝手に楽しんでしまっていただけで。いや、彼女も楽しい時間だと思ってくれていたなら、幸いなんだけど。(ああでもやっぱり、所詮そこまでの関係だ。ただ何度か、ここで顔を合わせていただけの存在)(この幸福が続くことを望んでいいだけの理由が、俺には見つけられない)
彼女は黙って、自身の体を見下ろしていた。
「あ、あれ…? 佐疫、今日は病院に用事?」
「あ……うん、ええと…ちょっと、ね。あの子が、今日退院だって聞いたんだ。短い間とはいえ関わりがあったし、やっぱり一言、退院おめでとうって言おうと思って」
ここにくる途中に、花屋にも寄ってしまった。あと、やっぱり楽譜も持ってきてしまった。退院祝い、ということで、一曲何か弾こうかな、なんて。喜んでくれるかどうか、少し心配になりながらも。あと、名前くらい、聞いておきたいな。結局聞いていないし、俺のことはずっと「ピアノのおにいさん」だったし。思えば、俺は彼女のことを何も知らない。知らないままでも、一緒には過ごせたんだ。なんにもしらない相手と過ごす時間を、幸福なものと思えてしまったんだ。
俺の言葉に、抹本がなぜかしばらく、固まる。何か伝えにくそうに、視線が泳いだ。
「……え?どうかしたの?抹本」
「え、えっと……その……ピアノの、女の子……だよね…」
「うん。ほら、腕がなかった、あの」
「……じ…実は、さっき……水銀さんが怒ってる声が聞こえて……」
「え?」
ドン!と何かが、薬品庫の扉にぶつかる音。抹本が音に驚いて飛び上がった。えっ、と振り返って、直後に俺の足は扉へ向かっていた。どこにいるか、見当たらなくってとりあえず一度抹本に挨拶がてら俺は薬品庫に来ていたけど。あの子は、どこにいるんだろう。最後の診察中だったんだろうか。腕の治った状態の、あの子は。
「ピアノ、弾いてくれませんか?」
扉を開けた先にいた、その人物。自分の目がみるみる見開かれる。ぽたぽたと、赤い血が廊下に滴っていた。
彼女の両腕からだ。
「床を汚さないでくださる?まったく、信じられませんわ。せっかく治した腕を自分でもう一度壊して、使い物にならなくするなんて」
彼女の背後から聞こえた、不機嫌そうな冷たい声。俺は、なんにも言えなくなって、その場に突っ立っていた。目の前には、いつもの、きらきら期待に満ちた目で俺を見上げてくる彼女。
「だって、私に腕があったら、あなたピアノ弾いてくれないんでしょう?」
どこまでも真っ直ぐな目でそんなことを言う。俺は――なんだかもう、いろいろと、言いたいことがありすぎて、それはもうありすぎて、今までひとつもきちんと自分自身の言葉で彼女に伝えてこなかったことを後悔した。ああ、だって、本当、こんなのって。息を深く吸いこんで、言いたいこと全部をちゃんと吐き出す準備をした。ようやく。
「そんなことしなくたって、君の頼みなら俺、いくらだって弾くよ」
目をぱちくりさせたその女の子は、そこで初めて、俺の名前を呼んだ。「"佐疫さん"?」ピアノのおにいさんじゃなかった。じゃあ、いいんだね。今から、新しい関係を始めてみても。
「とりあえず……名前、教えてくれるかな」
crescendo