「あっ、おかえりなさい!さえ……き、さん…」

 その人の姿が見えて、自分の声も表情もぱっと明るくなる。だけど駆け寄ろうとした直後、いつもとは違う相手の様子に、足が止まって声も尻すぼみになった。肩を落とし、ふらふらとした足取りの佐疫さん。私の声にも気付いていないかもしれない。体調が悪いのでは、と疑ったけれど、はあ、と深く吐かれた溜息に、「ああ…お疲れなんだな…」と納得する。声を掛けないほうがよかった、そのままお部屋で休んでもらったほうが……、と頭の中で考えていたら、佐疫さんがふと気づいたように顔を上げ、憔悴しきった声で私の名前を呼んだ。

「………あ、ごめん……今、声かけてくれたよね…?」
「い、いえ、こちらこそすみません。お疲れのところ……」
「ううん……いや、うん、疲れてるのはその通りなんだけど……」

 疲れ切った様子の佐疫さんに、なんて言っていいものか、言葉を選ぶ。お茶でも淹れましょうか、とか……ううん、一刻も早くお部屋のベッドで横になりたいかもしれないし、引き留めても…だけど何かできることはないかしら、とぐるぐる考え込んだ。だけどそんな私の頭の中を覗いたみたいに、佐疫さんが「ごめん、心配させちゃったね」と苦笑いする。その笑みさえ今は痛々しいくらい、くたびれた様子。その顔を見ていると、なんだかもう、なりふり構っていられないというか、この身すべて投げ打ってでも!という気持ちになって、私はぱっと手を広げた。

「え……」
「あ、あの、以前聞いたんですが、はぐ?は疲れを癒してくれるんだそうです!」
「……はぐ…」
「はい!よかったら私に、疲れをとるお手伝いをさせてください!」
「…」
「な……なんて…」

 自分で言っておいて、恥ずかしい。根拠も何も分かったものじゃない、こんな方法。広げた腕をちょっとずつ下げて、「すみません、聞かなかったことに…」と目を逸らして言い逃げしようとしてしまう。その直後、佐疫さんが珍しく、ぼうっとした声を出す。あ~…って、本当にぼんやり、考えることを放棄したような。

「さえ…、わっ…、…」
「はあ……つかれたぁ……」

 気付いたら、佐疫さんの腕の中にいた。それも、ぎゅうっと密着して。私を抱きしめながら、深く深く溜息を吐く。耳元で聞こえる声は、いつものしゃんとした声とは少し違う。骨を取り除いてしまったみたいにふにゃふにゃ、気を許し切ってくれているような声だった。

「…今日、すごく大変な任務だったんだ……平腹も好き勝手するし…俺が止めても全然聞かなくて……」
「それは……大変でしたね、すごく…」
「うん……その後、災藤さんからの頼まれごとがあったから閻魔庁にも寄らないといけなくて……」
「…はい……」
「すごく疲れてたんだけど……向こうに着いても追加でいくつか頼まれちゃうし…」
「……でも、断らないで全部こなしちゃったんですね」
「ん……自分で調子良く引き受けておいて、愚痴なんて言っちゃいけないね…」

 くぐもった声がくすぐったい。少し弱さを見せるような台詞と一緒に、抱きしめてくれていた腕の力も緩んだ気がして、追いかけるように今度は私が背中に腕を回してぎゅうっと抱きしめた。

「そんなことないですよ。その言葉も、溜息も、佐疫さんがたくさん頑張ったから、吐きだすものでしょう」
「……」
「だめなものじゃないです。佐疫さんは、えらいです」
「………」
「それでも他人には見せたくないものなら、私にだけ見せてください。いっぱいお話聞かせてください」

 目を閉じて、その背中をぽんぽん、と叩く。なんだか子供に言い聞かせてるような気分。…なんて、失礼かな、えらそうなことを言ってしまってないかな、いやな態度をとってはいないかな。抱き合って、顔が見えていないから、言えてしまうのかもしれない。私も、佐疫さんも。一度緩んだ腕の力を、佐疫さんがぎゅっと強める。どこか甘えるように、すり、と首元に触れる柔らかな髪が心地いい。しばらく、私を抱きしめたまま、佐疫さんが深く深く溜息を吐いて……深呼吸して、次の瞬間、ばっ!と体を引き剥がした。

「ごめん!あ~~本当、何やってるんだろう俺…! ごめんね、びっくりさせたよね」
「え……いえ、そんな…」
「ああもう、だめだ、疲れてるからってこんな……すごく格好悪いこと言った…」
「……」

 私に顔を見られまいとして、はあ、と自分自身に呆れたみたいに片方の手のひらで顔を覆う。ちくり、とか、もやもや、とか、そんな音が自分の胸の中で鳴りだした。違うのにな、格好悪くなんてないのにな。きらいになんてならないのに。呆れなんてしないのに。

「やっぱり俺、部屋で休んで……」

 背を向けて部屋に向かおうとする佐疫さんの腕を掴んで引き留める。え、って驚いた顔で私を振り返った。だから、今度は私から距離を詰めて、腕を伸ばして、ぎゅうっと抱き着いた。このひとの優しさを、ぜんぶぜんぶ包み込んで守ってあげられるくらいの広い腕が欲しい。私の腕じゃ全然足りなくって、どうしたってもどかしい。言葉でもなかなか埋められない。あと自分が渡してあげられるのは、このちっぽけなぬくもりだけなんだ。

「まだ、だめです……」
「………」
「もう少し私に、佐疫さんの疲れをとらせてください」

 ぎゅう、と抱きしめながら、小さくつぶやく。小さくたって、この距離でなら聞こえるはず。佐疫さんが言葉に詰まったように黙り込んで、それからやがて、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。小さい声で佐疫さんが呟いた。この距離でなら、聞こえてしまう。

「ずるいなあ……こんなふうにされたら、俺、きみがいないとだめになっちゃうよ」


だきしめてもいいかな