鍵盤の白に人差し指をそうっと置いて、ぐ、と少し押しこめば、一つ、音が鳴った。耳に入るその音が果たして、ど、なのか、れ、なのか、み、なのか、よく分からない。音を聞いても、という以前に、自分の指が置かれたその場所がどれみの中の何であるのか、分からない。次にその隣の白を押してみる。ぽおん。続いて今度は斜め上にある細い黒を押し込む。なるほど、今押した三つが、違う音、のような、変わらないような。よく分からないまま、右へ右へと一つずつ指をずらした。右端に行けば行くほど、本当にこれはピアノの音なのか?というくらい、きぃんとした音になる。変なの、と思いながら試しに左端を押せば、ずぅん、なんて音が出るし。きっとこの「きぃん」と「ずぅん」は、「ど」でも「れ」でもないんだろうな、きぃん、ずぅん、って音だもの。うんうん頷いて、右端、左端を交互に押していたら、ふいに背後から、くすくす、と声がした。さあっと私は顔を青くして、振り返る。

「さ、佐疫さん…!」
「ふふ、もういいの?俺のことは気にしないで、弾いていていいよ。今日は君が先客なんだし」
「いえっ、いいえ、そんな、すみません!」

 椅子もろくに引かずに慌てて立ち上がろうとして、足を打って、ウッ、と呻いて手を付いた先が鍵盤だったせいで、ピアノが嫌な重い不協和音を吐いた。すかさず佐疫さんが私の傍に寄ってくる。彼は、大丈夫かい、と眉を下げて苦笑した。私は恥ずかしくなって、もうどこかへ消えてしまいたい気持ちでいっぱいで、しょぼしょぼと顔を俯かせた。

「すみません、勝手に、ピアノに触ってしまって、本当にすみません」
「え?何も謝ることはないと思うな。触って壊したわけじゃないんだし。俺の私物でもないし」
「でも、だって、すみません、今どきますから」

 今度こそちゃんと立ち上がって椅子からどいて、いそいそとハンカチで自分の座っていた所を拭いた。その様子に佐疫さんが目をぱちくりさせて、「何もそんなことしなくても」と肩を竦める。

「いいえ、だって私、本当は、そのう…掃除中だったから…」
「ああ、この部屋の?その途中、ピアノが目に入って、触ってみたんだね」
「すみません…」
「謝らなくっていいってば」

 笑って、佐疫さんは座る部分が長方形の細長い椅子の左側に詰めて座った。そうして、さっさと出て行けばいいのにおどおど突っ立っていた私を振り返って、手招きをする。え、って目をまたたいた私に、自分の右側の椅子の空いた部分をぽんぽん叩き、「おいで」と言った。おろおろとさんざん迷ったけれど、佐疫さんがずうっとにこにこし続けるものだから、私は肩をきゅっと縮こませて、椅子の右端にちょこんと座った。

「そんなに端っこに浅く座ってちゃ落ちちゃうよ」
「へいきです」
「そう?」
「そうです」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ俺が右に少し寄っても落ちないのかな」

 ずい、と佐疫さんの肩が近づいた瞬間、びっくりして飛びのきそうになって、背もたれのないピアノの椅子からひっくり返りそうになって、すんでのところで佐疫さんが私の背中に腕を回してくれた。落ちそうになったことよりもその腕の方に意識が行ってどきどきする私に、佐疫さんが困ったように笑う。「ごめん、ちょっとからかいすぎた」って。

「もういじわるはしないから、座って」
「…はい」
「もう少しだけ左にね」
「……はい」

 言われるとおりに座り直すと、狭い椅子に佐疫さんとくっついて座ることになって、余計に肩をちいさくちいさく、もう本当にぎゅうっと小さく、私は座った。さて、ところで、私はどうしてこの椅子に座るように言われたのだろうと考えた直後、佐疫さんが指を鍵盤の上に置いた。私はその指先を、どうしてか、食い入るようにじぃっと見つめてしまった。結果、音は流れ出さず、佐疫さんは指を一旦引っ込め、私の方へ微笑みかけた。

「ピアノが好きなの?」
「え?」
「さっきこっそり弾いてるとき、楽しそうだったから」
「わ、私が?いいえ、好き、とか、言えるような、そんなんじゃないんです」
「そうかな?」
「私、ピアノ弾けないんです。弾いたことがなかったんです。だから、さっき、つい」

 「弾く」だなんて、そんな表現にすら失礼な気がする。ただ、物珍しくって、触ってみてしまっただけ。触って鍵盤をぐっと押し込むと音が鳴る、「どれみ」って音が出る、というくらいの知識しかなくて、どうやったら、人と同じように弾けるのか想像もつかない。というか、よく耳にするあのピアノの演奏が、どうやってこの眼の前の白と黒のボタンで作ることができるのか。本当にあれはピアノという楽器で弾いているんだろうか。それくらい、不思議だった。どうして押した場所によって音が変わるのかも、不思議だ。

「男の人も、弾くんですね、ピアノ」
「あはは、変かな?」
「いいえいいえ、まさか!そんな意味で言ったんじゃないんです!とても素敵です!」

 ぶんぶんと首を振ってそう力強く言ったら、佐疫さんがちょっと驚いた顔になって、すぐに笑った。「ほら、やっぱり好きじゃない。ピアノ」って。言われて、自分が、ピアノを素敵って言ったのか、佐疫さんを素敵って言ったのか、あれ、どっちだっけ?って曖昧になる。

「あの、佐疫さん。今日、ピアノの練習にここに来たんでしょう?私、邪魔なのでは…」
「ん?ああ、いいんだよ。っていうか、そういえば知ってたんだね。俺がピアノの練習によく此処へ来るって」
「はい、だって、館にいるとよく聴こえますから。ピアノの音」
「そっか。なんだか恥ずかしいな」
「上手なのに?」
「いいや、そんなに上手くないよ。楽譜が無いとこれといって弾けないし」

 それって、楽譜があればだいたい弾けるんだろうか。そんなことを勝手に思っていたら、佐疫さんが「今練習中の曲はこれ」と言いながら、用意してきた楽譜をピアノの上の楽譜をおいておく場所に、さらさら広げた。はあ、と大量のオタマジャクシを目で追いかけて、よくわからなくて頭がぐるぐるしてくる。どのオタマジャクシが「ど」で「れ」で「み」なんだろう。

「…むずかしそうですね」
「そうだね。でも災藤さんがすごく丁寧に教えてくれるんだ。自慢の先生」

 災藤さんは、佐疫さんの上司だ。とても偉いお方。佐疫さんにとって、上司でありピアノの先生、ってなんだか素敵な関係だな。笑って災藤さんの話をする佐疫さんは、本当に災藤さんを慕っているように見える。

「君も今度、教わってみたらどう?」
「そんな、私、弾けないですから。まず『ど』がどこにあるのかも分からないくらいです。そんな初心者が、忙しい身である災藤さんのご指導を受けるのは、ちょっと」
「それなら、俺でよければ教えるよ。…なんて、俺も練習中の身だから、偉そうなこと言えないけど」
「え、でも…」
「はい、じゃあとりあえず…ふふ、そうだな…君の知りたがってる『ド』の音は、ここ」

 でも、でも、と躊躇っていたくせに、結局は流されるままに、佐疫さんの示す場所に人差し指を置いた。ぽおん、と音が鳴って、ううんでも、「ドー」という音に、聞こえなくも、ない、のだろうか、わからない。指で押して、離して、もう一度押して、何度も、ドの音を聞いてみる。ふうむ、と耳を寄せてよおく聴いてみると、横を向いたせいで佐疫さんと目が合う。神妙な顔で「ド」を繰り返す私を、笑って見ていた。

「…なんだか、不思議なんです」
「うん?何が?」
「ピアノ、弾いたことなんかなかったのに、ほんの少し、懐かしい気がするんです。触ったり、音を聴くと」

 ぽーん。ぽーん。と間をあけてただその音を繰り返し耳に入れて、ぼんやり思う。なんだか、不思議な感覚で、でもあえていうのなら、「懐かしい」という気持ちの様な気がするんだ。私はしばらく何にも言わずにその音をしつこいくらいに聴いて、佐疫さんもしばらく何も言わなくって、ピアノの音だけが部屋に響いた。たっぷりの間をあけて、思い出したように私が、「変ですよね。弾いたことなんかないのに」と言ったら、佐疫さんも、それまでの沈黙なんかなかったようにすぐ、「変じゃないよ」と返した。

「もしかしたら、ずっと前に弾いたことがあったのかもしれないよ」
「…いえ、そんな憶えはないんです」
「憶えていないくらい、ずうっと前にさ」

 その言葉にはっと胸を突かれたような気持ちになって、鍵盤の上に置いた指が止まる。佐疫さんの方へ顔を向けると、私に、ひどく曖昧な微笑を向けていた。そう、ひどく、本当に、曖昧なもの。私は自分の手元の、黒と白を見下ろした。
 佐疫さん、それはつまり、人間だった頃の記憶かもしれない、ってことですか。――そう尋ねるのがなんだかすこし、躊躇われて、私は結局なんにも言わず、「ド」の音を指先で弾いた。ど、れ、み、どれみ、み、の次は、なんだっけ、たしか、そうだ、確か――、しっていた、気がするのにな。



 ふいに、佐疫さんが私の名前を呟いた。呼ばれた、と気づいて顔を上げようとしたら、ふわりと頭に佐疫さんの手のひらが乗っかった。突然すぎて、びっくりして、私は固まってしまう。だけど頭を撫でる手がびっくりするくらい優しいので、どきどきは、徐々に穏やかな音に変わっていく。

「また明日もおいで。俺、上手く教えられるか分からないけど、きっと君なら弾けるようになるから」
「…そんな、私、ほんとうにそうでしょうか。佐疫さんみたいに、上手に弾けるように、なるでしょうか」
「きっとなるよ。俺、君とピアノが弾きたいんだ、すごく」

 たったその一言で、胸がどうしてかきゅうっとなって、私はちょっとだけ俯く。今少し、顔が赤いかもしれないから。そんな私にきっと気付きながら、佐疫さんは笑って、やっぱり頭を撫でていた。だから、深呼吸して、ようやっと顔を上げられたときに、私は佐疫さんに言う。「きかせてくれませんか。一曲だけ」私のわがままに、佐疫さんは嫌な顔ひとつせず、いいよ、と囁いた。私の指じゃちっともだったのに、佐疫さんの指で、ピアノは静かに歌い出す。誰かを、何かを、悼むように。






骨と記憶