お子さまの
火遊び
お酒の瓶を片手に、肋角さんが「木舌はいるか」と声を掛けてきた。首を振った私を見ると、その人は少し残念そうに肩を竦める。「木舌くんに何か御用だったんですか」と尋ねたら、持っていた瓶を軽く揺らしてみせた。なんでも、珍しいお酒が手に入ったから、木舌くんに一杯付き合わせようと思った、とのことだった。お酒大好きな木舌くんに真っ先にお声が掛かるのはいつものことだ。他を当たるか、と私に背を向けようとする肋角さんを、慌てて引き止める。「あの、私で良ければご一緒させてください!」と。名前を呼んで引き止めるのだって、そうお願いするのだって、声が震えた。どきどきと鼓動がうるさくって、今にも心臓がまるごと骨と肉を突き破って飛び出してきそうなくらいだった。それくらいどきどきした。意外そうに肋角さんが私を見つめる。ぷるぷる震えて顔だって真っ赤になっている私に、ふっと笑う。「お前にはまだ早いかもしれないぞ」と、茶化される。私は思わず、勢いに任せて、反論した。ちょっと声が大きくなってしまった。
(私、子供じゃありません!)
そう宣言したものの、だ。
肋角さんにお酌をするだけではもちろん終わらなかった。肋角さん、お酌してくれる相手じゃなくて、一緒に飲んでくれる人を探していたわけだから。「俺だけ酔っ払わせる気か」と少し意地悪く口元に笑みを浮かべる肋角さんに、うぐ、と身を引く。飲めないわけじゃない。けど、他のみんなのようにめちゃくちゃ強いというわけじゃない。比べられると弱いので、あんまり人前で飲むのは好きじゃなかった。けれど今日ばかりは、自分から肋角さんに名乗り出たのだし、「やっぱりお前はまだ子供だな」と言われるのは嫌だ。だって私こどもじゃないのだし。肋角さんに子ども扱いされたくない。だって私、わたし、立派な大人なんですから。わたし、小さな女の子なんかじゃないんだから。お酒だって飲める。肋角さんとこうやって、夜更かしだってできる。
「」
目の前がくらくらしている。飲み干した液体は、なんだか不思議な味がして、私の喉の奥を焼く。一気に押し込んだのも悪い。苦いんだか辛いんだかよく分からない。なんで肋角さんはこれを平気な顔して飲んでるんだろう。あとたぶん木舌くんも平気でごくごく飲むんだろうな。かーっと全身が火照ってくるのを感じながらも、ぶんぶん首を横に振って、どうにかこうにか平気な振りを試みる。当たり前だけど肋角さんにそんな無理は簡単に見破られてしまい、苦笑して私の手からグラスを取り上げた。その際に肋角さんの大きな手が私の指に触れる。お酒のせいだけじゃない。ぐんと余計に体温が上がる。ああまた心臓がうるさくなる。そんなに仕事しなくていいんじゃないかってくらいうるさい。
「無理に付き合わせて悪かった」
「大丈夫、です」
「今度、お前も飲める酒を用意しよう。飲み直しはその時にな」
「飲めます、ぜんぜん平気です」
「そうは言ってもな」
「子供じゃないです、わたし。子ども扱いはしないでください」
ぶんぶんとまた首を横に何度も振る。それを見て肋角さんが小さく笑った。また、かあーっとなる。分かってる、こんなふうにやだやだって駄々をこねる時点でそれこそ、こどもなんだって。わかっていても、嫌だ。ソファーに手をついて、ぐっと肋角さんの方へ身を乗り出す。驚く素振りもなく、肋角さんは近くなった距離のまま私の視線に応えた。「私、こどもじゃありません」何回目かになるその言葉を、肋角さんを見つめながら口にする。「わたし、もう、大人ですよ」どくどくと鳴り続ける心臓の音は、もしかしたら危険信号だったのかもしれない。けど、そんなものに構っていられる余裕は無かった。
「…俺にとっては可愛い娘のようなものだ」
「娘じゃないです、わたし」
「」
「だって、わたし」
だって子供じゃ、肋角さんにお酒を誘ってもらえない。子供じゃあ、この人に、触れてもらえない。私こんなに頑張って、こんなに急いで、大人になったのに。気付くと視界が水の膜で少し歪んでくる。潤んだ目を、やっぱりこの人は、子供だって笑うだろうか。それとも、女の狡いところだって顔をゆがめるだろうか。そう思ったけれど、肋角さんはじ、と私を見るだけで、表情を変えない。少し目を細めるけれど、冷静で、落ち着いていて、なんだか私ばっかりが必死だ。私の心臓はいまにも過労の末に爆発してしまいそうなのにな。悔しいような切ないような気持ちになって、私は縋るようにその胸に顔をうずめた。
「…随分悪い酔い方をするな」
「離れません、はなれないです、絶対」
「そうやってわがままを言う内は、子供だろう」
「わたし、こどもじゃありません」
「ほう」
「もっと…大人扱いしてください…子供じゃない、一人の、女なんですから、わたし」
「一人の女として扱われることの意味を分かっているのか?」
「わ、わかります!それくらい!だってわたし、こども、じゃ、あ、」
顔を、無理やり上に向かされる。顎をぐいと持ち上げているその指は、まぎれもなく、今、私の目の前の、その人のものだ。自分の体まで肋角さんの所有物になったような気持ちになって、ぞくりとした。鼻先が触れるような距離に、ずっと恋い焦がれたひとの顔がある。褐色の肌に、射貫くような赤い瞳。お酒の匂いに混じった、煙草の匂い。速まる鼓動に急かされるように、歓喜の波が押し寄せる。だって、肋角さんが私を見ている。私に触れている。そんな視線、こどもには向けない。こんな触れ方、こどもにはしない。
「悪い子だな」
子ども扱いでなくなったはずのその瞬間に、囁かれた言葉はひどくこの状況と矛盾していた。微かにその人が笑った、直後に唇が押し付けられる。あっ、と胸を高鳴らせる暇もない。薄く開いた唇の間から無理やり捻じ込まれた舌に、頭が真っ白になる。思わず引こうとした顎は、当然のようにその人に固定されていて動かない。他人の舌が口の中に入ってくるなんてもちろん初めてで、いきなりで、何もかもされるがまま。歯列をなぞり、私の舌を絡めとって、好きに口の中を蹂躙していく。舌がひとつの生き物みたい、それも、獣みたいな。そんな激しい口づけについていけるほどの頭も順応性も無い。うまく息ができない、くるしい、くるしい、しんじゃう。こわい。絡みつく舌から送られる大量の唾液を酸素の代わりのように必死に喉の奥に流し込んだ。そうすればくるしいのが和らぐんじゃないかと、呼吸が楽になるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。余計に、くるしい。すこしにがい。唇がやっと離れたときには、飲みきれなかった唾液で口の端はぐちゃぐちゃになっていた。いつのまにか溢れていた涙が止まってくれない。そのまま強い力でソファーの上に押し倒されて、片手で押さえつけられた両手首はびくともしなかった。唇が震える。きつく瞑った目を開けるのが怖い。どうして。目を開けてそこにいるのはあの人のはずなのに。どうして。どうして。
「ろ、っかく、さ…っ」
「どうした?」
「…やだ…っ、や、…こわい、」
「俺に抱かれたいんだろう?」
ちがう、こんなはずじゃなかった。違う。想像の中ではもっと、あの人の口づけは甘くって、手つきは優しくって、私を大事にしてくれたのに。可愛がってくれるはずだったのに。そう、優しかったの。やさしかったはずだ。――親が子を愛でるように、幼い子供をあやすように。
ああ、ちがう、違うのに。わたし、こどもじゃない。こどもじゃないから、ああそうかだから。
「俺も『男』だ。それも悪い大人の、な」
服を脱がすその手が誰のものかなんて、もう分からない。こんなはずじゃなかった。自分の考えの甘さに泣けてくる。もう泣いているけれど。私の中の「優しい肋角さん」は、私を我が子のように愛してくれる肋角さん、だった。子ども扱いしないでって言ったのは私。女扱いしてって、大人扱いしてって、言ったのは私。「父親みたいに優しい肋角さん」をやめて、って、言ったのは私。肌を撫でる手は、恋い焦がれたその人のものじゃなく、全然違う男のものに思えてしまって、その瞬間ぜんぶが余計に恐ろしくなった。私を「女」扱いするのだから、当然彼も、「男」として、私に触れる。結局口だけで見栄を張るばかりで、男を知らない生娘だった。私をあの人が「一人の女」として見ていないのと同じように、私もあの人を「一人の男」として見ていなかった。分かったふりだけして、どういうことなのかちゃんと理解していなかった。
「今更やめるのは無しだぞ。『大人』だろう?」
大人になんかなりたくなかった。すっかりお酒の酔いなんてさめてしまった。ああだからどうか、こどもにもどしてください。