エスオーエスのホルマリン漬けを蒐集している
「…ま、抹本さん…?」

 それは、なんの薬を作っているのだろう。かなりあやしい色をしているし、変なにおいもするし、なんか液体を通り越してへんなぐじゅっとしたちっちゃい手みたいなものが試験管から伸びているのだけど。室内で集中している中に声をかけるのはご迷惑かもしれないと思いながらも、つい声をかけてしまった。集中していて声に気付かないのか、少しの間をあけてから、ハッと顔を上げた抹本さんは、私が異様な試験管の様子にじりじり後ずさっているのに気付くと、慌ててそれを試験管立てに置いた。

「ご、ごめん…!えっと…ど、どうかしたの?俺に用事…?」
「あ…ええと、先生がお呼びですよ、って…声をかけに」
「あ、ありがとう…」
「い、いえ…」

 ひとと喋るときにどもってしまうのは私の癖みたいなものなのだけど、抹本さんも同じようにびくびくと喋るので、私たちはいつもおどおど、へんにぎこちなく会話する。婦長がよくそんな私たちを見て呆れたように溜息を吐くけれど、治りそうにもない、変わりそうもない、この距離感。部屋を出るときに、またちらりと抹本さんが調合していた試験管を視界の端に入れる。やっぱり変な色だったけど、へんなの、って言ったら抹本さんに失礼な気がするので、言えない。私はそそくさと部屋を出た。




 その日抹本さんは集中して薬品庫の棚を端から眺め、手に持った確認表にさらさらペンを走らせながら、薬品の点検をしていた。私は声をかけてもいいものか迷って、音もたてずに扉を開けて、そうっと、一歩ずつ近寄る。しかしその後の声をかける第一声を、どうするか迷って、なかなか声をかけられない。点検中に声をかけたら、そこまで数えてた数だとか、メモを取ろうとした内容とか、混乱させてしまうかな。終わるまで待っていよう、と息を殺してしばらく離れたところから見守った。
 リコリス総合病院で働く自分の中で、抹本さんの存在というのは、なんだか不思議な位置にあった。特務室所属の獄卒さんだ。病院の正式なスタッフというわけではないし。同僚というわけじゃない。でも、すこし、仲良くはしたい、という気持ちはある。そんなに、身の程知らずな図々しい願望じゃなくって。ただちょっと、こういうときに、なんのためらいもなく話しかけられるような、そんな関係であったら、嬉しいのになあ、という程度に。
 と、考えていたら一段落したのか抹本さんがぱっと振り返って、私を見て、飛び上がる。

「うひゃあっ!?」
「ひえっ!!?」

 びっくりした声に自分もびっくりして、二人同時に腰を抜かす。婦長に見られたらまたやれやれと溜息を吐かれそうな光景。よろよろとなんとか起き上がって、「す、すみませんでした…」と謝る。あきらかに私が悪い。音もなく後ろに立って、まるでもう驚かす気満々でスタンバイしていたようなものだ。いやそんなつもりはなかったのだけど!抹本さんも遅れてよろりよろりと起き上がって、「俺の方こそ…ご、ごめん…」と蚊の鳴くような声で言った。

「…あ、あの」

 何か、言おう、って思うのだけど、その先が出てこない。たった今驚かせてご迷惑をかけたのだし、いきなり「それはさておき今日はいい天気ですね」なんて世間話をするのは何か違う気がするし。でもずるずる何度も謝るのも、なんだか、ええと、ううん。

「…ふ…婦長が、抹本さんを探していたので、声をかけに」
「あ…う、うん、ありがとう…」

 やっぱり今日も、必要最低限の用件だけ伝えて、お互いにぺこりぺこりと頭を下げる。それだけ。いや、まあ、勤務中なのだし、抹本さんだって遊びにここに来ているわけではないし、これでいいはずなのだけど。私は少しそこに留まりたがる足をどうにか動かして、薬品庫を後にしようとする。けれど不意に「あの、」とか細い声が聞こえた気がして、慌てて振り返った。振り返った先で、抹本さんが落ち着かなく、ごにょごにょ口ごもっていた。

「は、はい!何か御用でしょうか!?」
「ひっ あ、ご、ごめん、急いでる、よね…なんでもないんだ…ごめん…」

 私の珍しく食い気味で上擦った声にびくりと身を引いた抹本さんが、そのまましょぼしょぼすごすごと視線を落とす。私は途端に、がーん!という衝撃が後頭部に走った。せっかく、話しかけてくれたのに。せっかく、チャンスだったのに!こわがられた!ひかれた!と悲しくなって、自分もしょぼしょぼと肩を丸めて、部屋を後にした。
 どうも、うまくいかない。






「あら、毒虫さんはまだ薬品庫の中ですの?」

 またある日、婦長のその一声に、ぴんと耳を立てた私が飛び上がる。「私、呼んできます!」と、いつものように駆けだそうとする私に、婦長が言う。「貴女、そんなに彼を呼びに行く仕事がお好き?」と。少し、含みのある言い方で。私はぎくりと肩を揺らす。婦長にはなんでもお見通しだ。こわごわと見上げると、「まあいいのだけど」とツンとされた。でも、だって、今日こそ。今日こそは。そう意気込んで、薬品庫に向かう。

「こほん、えー、えー、『それはなんのお薬なんですか』『すごいにおいですね』『おもしろい色ですね』『長時間集中してお疲れじゃないですか』『よかったら少し一緒に休憩しませんか』…うん、よし、大体こんな感じかな」

 その扉を開く前に、ぶつぶつとイメージトレーニングをしてから、よし、と一歩踏み出す。もう、音もたてずに開けてビックリさせてしまうだとか、そんなことがないように、ばっと思い切り「たのもー!」という勢いで扉を開けた。
 そして当然のようにその扉の音にびっくりして、抹本さんが悲鳴を上げた。同時に、ぱりん、という音も。

「…、……ま、」
「あ…ああぁ…もうすぐ完成だったのに……」
「…ご、ご…ごめんなさ……」

 いやほんとうに、どうして、どうしてこうもうまくいかないのか。私が勢いよく扉を開けたせいで、びっくりして試験管を落としたらしい抹本さんが悲しげに項垂れる。もうさあっと血の気が引いた私は、どう謝っていいものかわからず、ただがたがたアワアワと震える。どうしよう、めちゃくちゃ邪魔をしてしまった。めちゃくちゃ最低なことをしてしまった。謝って済む問題じゃないとおもう。めちゃくちゃ怒鳴られても仕方ないことだ。おそるおそる、彼の方へ近寄る。当初の予定よりもかなり足取り重く、もう本当逃げ出したい、三分前に時を戻したい。

「ま、抹本さん…すみません…本当にすみませんでした…私のせいで…その、たいへん…大事なお薬を…」
「あ…う、…い、いいんだ…気にしないで……」
「いえ…でも……」
「これは、俺個人で楽しんでたっていうか…実験用だから……」

 きにしないで、と言いながらも、その声は暗く、顔を上げてくれない。心底惜しむように、未練があるように、床に落ちた液体を見つめていた。あまりにも気の毒すぎて、もう、目も当てられない。今すぐここで土下座するべきだろうか、と思いながらも、震える声で抹本さんに声をかける。

「あ、あの…お詫びに何か私にできることはありませんでしょうか……」
「え…」
「な、なんでも、なんでもしますので…どうか…」
「ほ…ほんとに…?」
「はい…」
「俺の頼み、聞いてくれる…?」

 思った以上に、すぐに抹本さんは俯いていた顔を上げてくれた。「じゃ、じゃあ、この薬つくりなおしたら、いちばんに飲んでくれる?」

「え…薬、ですか。その、実験用の?」
「うん。本当は完成したときに頼もうと思ったんだけど…よかった」

 うへへ…とすこし嬉しそうな顔。薬をだめにしてしまったことへの悲しみをすっかり忘れたように、むしろラッキーだった、といわんばかりに。反対に私は、ぽかんとする。予想外の交換条件だったので。いやしかも「完成したら頼むつもりだった」って、もともと私に飲んでみてほしかった、みたいな言い方だ。

「ち、ちなみに、その、どんなお薬…なんです、か?」

 毒はべつに効かない性質だけど、なんの事前説明もなく出された薬を飲むのはさすがにちょっとおそろしい。まさか悪意あるものではないと思いたいけど、尋ねる声が自然とびくびく震えてしまう。まさか私のことを前からちょっと疎ましく思っていて、黙らせるために対私用の薬物を調合していたとか、そんな、そんなことは。抹本さんが私の言葉に、きょとんとして、それからすぐに目を泳がせた。ええと、そのう、としどろもどろになった彼。え、まさか本当に、私の息の根を止めようと、そういったお薬を…!?ショックすぎる、そんな、悲しすぎる!そこまできらわれていたなんて。
 あの、あの、と何か弁解しようとするものの何も言えないでいたら、私の後ろで婦長の声がした。

「あらお二人とも、仲良く油を売ってらして」

 またもや含みのある、いやむしろ毒のある言い方。ひえっ!と私も抹本さんも飛び上がって、でも呼びにきておいて役目を果たせていない私が悪いので抹本さんは悪くない。慌てて婦長に事情を説明する。「いえ、実は、私のせいで抹本さんの調合していたお薬が、私が飲むはずだったお薬が」とあわあわ下手な説明を口にして、それを黙って聞いて、ふむ、と顎に指をあてた婦長が、さらりと

「いくら毒虫さんでも、うちのスタッフに怪しげな薬を盛るのは感心しませんわね。惚れ薬か何か?」

 と、そう言った。ぴしり、固まる私。ぴたり、固まる抹本さん。

「あら。ちがって?」
「ち、ち、ちが、ちがいますよ!!な、なんでそうなるんですか、ね、ねえ!?抹本さん!?」

 狼狽えながら、抹本さんのほうを見る。目が合って、ぎょっとしたような顔をするから、私までぎょっとした。なんですか、その反応。いや、まさか、そんな、そんなわけがないとおもうけど。だけど、そんな反応をされてしまうと、もしかして、と思ってしまう。いや、でもまさか。自分の心臓の音がどんどん速くなって、なんだか体温がどっと上がって、答えを得たわけではないのに恥ずかしくって抹本さんの顔が見られない。だけどそんなへんに浮かれた私の頭上に、すとんと抹本さんの言葉が落ちてくる。

「ち…ちがうよ」
「……、…そっ…そう、です、よねえ!?」

 いや、はずかしい、めちゃくちゃはずかしい。思い上がりもいいところではないですか。さっきとはまた違う意味でカーッと顔が熱くなって、私はもう今すぐこの場から消えてしまいたくって仕方ない。婦長が、ふうん、みたいな顔で、「あらそうですの。とにかく、先生がお待ちですわ」とその場をまとめるように言って、薬品庫を出て行く。一刻もはやく姿を消してしまいたい私はそのあとに続こうとして、でも、また、「あの、」と背後から呼び止める声がした。今度は、間違えない。食い気味に返事もしなければ、声を大きくして振り返ることもしない。(というか、そんな元気も、ない)

「俺……惚れ薬じゃなくて、『もっと一緒に話せるようになる薬』を作りたくて」
「…え?」
「あ…えっと…神経伝達物質を直接コントロールできるような…喋るのがすごく上手くなる薬っていうか…」
「…ええ…(魅力的すぎる)」
「いつも何か話そうとしてくれるのに、俺…聞けないから……もし飲んでくれるなら、って…飲んでくれたら、いいなあって…」

 ずっと、気付いてたんだ。私がなにか言いかけるのも、おどおど、話したいように話せないのも。ぽつぽつ、ごにょりごにょりと、でもはっきり伝えてくれる抹本さんに、心臓がぎゅうっとなる。こんなとき、なんて言ったらいいのか、わからないけど。それはきっといつもみたいにおどおど、おろおろするからじゃなくて、もっと、違う意味で、言葉が出てこない。立ち尽くす私に、抹本さんが落ち着かなく、そわそわ、ちらり、視線をくれる。

「で、でもそっか…惚れ薬を作ればよかったんだ…」

 何か、耳を疑うようなことを呟いた。重大な答えを得たように、どこかすっきりとした顔になった彼は、え?って固まる私にまっすぐ言葉を投げる。

「じゃあ、作り直したら飲んでもらうね…」
「えっ…いや、あの、まって抹本さん…」
「あ…早く先生のところに行かないと…」
「ま、まって!」

 初めて、むりやり呼び止めた。抹本さんの服を掴んで。はじめて、言えたような気になった。「わたしのはなしを聞いてください」って。緊張で顔は熱くなるけど、喉はからからになっていくけど、でも、今なら言えるとおもった。

「惚れ薬は、必要ないとおもいます!」
「えぇっ…い、嫌だった…?」
「ひ、必要、ないんです!」

 ひつよう、ないので。もう、だって、必要がない、ので。みるみる声が小さくなって、でもそれ以上どう説明していいのかもわからなくて、同じ言葉だけくりかえす。抹本さんが、ぽかんと私の真っ赤な顔を見つめて、しばらく黙り続けて、それから、細い声で「必要…ない、の?」と口にした。それってつまり、そういうことなの?と確認するみたいに。目を合わせて、ふたりしてちょっと探るようにだまりあって、「あの、」と切り出した声が揃う。ただそれだけで、答えを知ったような気持ちになって、ふたりで一緒になって、へら、とちいさく、ぎこちなくだけど、笑いあった。

 婦長が、少し怒った声で私たちを呼んだ。「まあ、本当、仲がよろしいこと!」