町を歩いていると、急に呼び止められた。振り返った先には、綺麗な長い黒髪をおさげにして垂らしている可愛らしい女の子がいた。柔らかな桃色の着物に身を包んだ彼女は、少し勢い付いたように前のめりになっている。私の知り合いではない。その顔に覚えはない。特務室の方、と呼んだくらいだから、私のこの制服を見て呼び止めたんだろう。今の自分の格好は、仕事終わりの制服姿。ひとめ見て特務室の者だとわかるこの目印は、悪人にとっては避けていく対象だし、善人にとっては何かあったときの相談先だ。目の前の女の子が後者だということは察しつつ、少し姿勢を正してその顔を見据える。
「ええ、そうですが……何か、」
「こちらを木舌さんにお渡ししていただけませんか!」
「……はい?」
ずい、と差し出されたのは、一通の手紙だった。自身の眉が寄る。いや、差し出されたものよりも、彼女が口にした名前に対して、思わず。見知らぬ女性の口から出た、聞きなれた名前。
なぜ、とか、何、とか声に出す前に、はっとする。頬を染めて、でもきゅっと決意をこめたような表情で、私に手紙を両手で差し出す、その指が微かに緊張で震えている。その様子に、なんとなく……なんとなくだけれど、この手紙にこめられた意味を察してしまう。
「木舌、ですか?」
「は、はい!私、そこの呉服屋の者なのですが、先日酔っ払いの男性に絡まれて困っているところを、通りがかった木舌さんに助けていただきまして……」
「……なるほど」
「私そのとき、怖くて震えることしかできなかったのですけれど、そんな私にもとっても優しく寄り添ってくださって……お名前をお聞きすることはできたのですが、きちんとお礼をお伝えすることができず……その、改めてお礼をお伝えしたく……ええとその……」
話している間にも、もじもじ、ごにょごにょ、身を縮こませる。はあ、ははあ、そう、やっぱり。私は一度目を瞑って、ふうーっと深く息を吐く。木舌のやったことは正しいし、何も私がモヤっとすることはないし、気にすることはないし、全然、いい、何も、何も問題は、無い。――というのを自分自身に言い聞かせるための深呼吸だった。
「もちろん。木舌に渡すのは構いませんが、直接お渡しされた方がいいのでは?本人がここを通りがかるのを待っていた、というわけでは…?」
「あ、えっと……」
「というか、呼んできましょうか?木舌。手紙じゃなくて直接……」
「いえ!それはそのっ、恥ずかしいので…!」
真っ赤になって首を振る彼女いわく、直接お話するのは恥ずかしい、だから手紙にしたし、特務室の人間をよく見かけるこの通りで誰かに手紙を預けられる機会を伺っていたのだという。普段からあまり男性とお話しするのが得意ではないだとか、緊張するとまったく言葉が出てこないだとか、すぐ顔が赤くなって恥ずかしいのだとか、そういう事情をたどたどしくも私に話してくれて、話の最後にはちょっと恥ずかしそうに微笑みながら、「特務室の方、男性ばかりだと思っていたんですが女性の方もいて……優しい方で良かったです!お手紙、よろしくお願いしますね」とまで言われてしまった。
「……お預かりします」
渡された手紙を、どこか複雑な気持ちで見つめながら、私は帰路につくことになった。
「ただいま。木舌、帰って来てる?」
館に帰るなり、食堂の方からわいわいがやがや話し声が聞こえた。きっとみんな集まっているんだろう、と顔を出したら、扉に一番近いところにいた佐疫がこっちを振り返って「おかえり、」と迎えてくれる。そして私が室内をぐるっと見回しているのを手助けするように、「木舌ならまだ帰って来てないよ」と付け加えてくれた。
「そっか。今日は木舌も仕事だものね」
「木舌に何か用事?」
「まあ……そんなところ」
「、今日の夕飯は豪勢だぞ。貰い物の大きな肉があってな。今人数分をわけようという話を…」
「帰ってくんのが遅ければお前の分も食われてたな」
「マジ!?の分も食っていい!?」
「おい!全部持って行こうとするな馬鹿者!!」
「つーか木舌いねーじゃん!?木舌の分は食っていいよな!?」
「待て平腹。もし仮に許可が出たとしてもその分は改めて残りの人数で分けるべきじゃないのか」
予想外の賑やかさに、やれやれの溜息が出る。食べ物絡みでこう盛り上がっているところを見ると、男所帯って感じだ…と改めて思った。その賑わいの中に、目当ての人物はいないけど。帰ってきたばかりだし、木舌もいないならとりあえず一旦部屋に戻ろうかな、と廊下へ引っ込もうと後ずさったとき、とん、と背中に何かが当たる。「おっと」と、聞きなれた声が背後、かつ高い位置から降ってきた。佐疫が私の後ろを見ながら、あ、って顔をする。「おかえり、木舌」と、その顔のまま佐疫が言う。
「ただいま。も今帰ってきたところかい?」
「えっ、あ……ま、まあ」
ぐぐぐ、と首を動かして頭上を見上げたら、私のすぐ後ろに立っていた木舌が覗き込むように私を見下ろしながら、にっこりと目を細めて微笑んだ。
「おかえり、」
「……ただいま……じゃなくて!今帰ってきたのは木舌でしょ!」
「はは、それもそうか」
「お…おかえり」
にっこり顔のまま、木舌が「ただいま」と私に向かって口にする。直前までその帰りを待っていたはずなのに、いざ本人を前にすると、なんて話を切り出していいものか分からず、言葉が続かない。木舌は私の横から食堂の中を覗いて、何か楽しそうな騒ぎだね、みたいな首の突っ込み方をして、お肉で盛り上がっている他のみんなと話し始める。しばらく黙ってそんな会話を聞きつつ、タイミングをうかがっていたところ、ふと佐疫と目が合う。あ、と思ったら、佐疫も、あ、って思い出したような顔をした。
「そういえば、木舌に用事があって探してなかった?」
「えっ!あ……まあ……」
「おれに?気付かなくてごめんよ、。何かあったのかい?」
「や、ええと……ただ木舌に渡したいものがあっただけで……」
「渡したいもの?」
「ほ!?なに!!食いモン!?木舌ずりーじゃん!」
「食べ物じゃないっ!」
横から口を挟んできた平腹にワッと言葉を返すも、平腹以外のみんなの視線もこちらに向いていることにぎくりとする。べつにみんなの前で渡したっていいもの……だとは思うけど、でもわざわざみんなの前で渡すものでも…ないような。変に周りにからかわれても手紙を渡してきたあの子に申し訳ない気がするし、癪というか、なんというか。
「オレには?オレにはねーの?」
「だから食べ物じゃないってば!これは木舌にしかないのよ!」
「はー?なんだし!」
「それは……えっとだからその……」
ごにょごにょ言いよどんで、ちらりと木舌の顔を見上げる。その視線に、木舌は少しきょとんとしてから、笑って首を傾げる。口を開いて手紙のことを話しかけて、いや、やっぱりだめだ、と頭を振った。勢いづいて思わず木舌の服の端を掴む。
「できれば二人だけで話したいんだけど……」
木舌が二・三度まばたきをした。予想外の言葉だったのか、珍しい反応。厄介なことに私のその言葉が聞こえた田噛が「そりゃあイチャつくならよそでやれよ」とヤジを飛ばしてくるものだから、「そんなんじゃないってば!!」と反論する。本当にそんなんじゃない。でもやっぱり、ここで話したら邪魔が入りそうだ。私は木舌の腕を引っ掴んで、ぐいっとそのまま歩き出そうとする。
「いいわよねっ!?木舌!」
私の力で簡単にその大きな身体が引っ張られてくれるとは思わなかったけど、木舌は一瞬の沈黙の後、「もちろん、構わないよ」とにこやかに返事をして私の後についてきた。私に引っ張られているような図は、歩幅の関係ですぐ隣に並ぶ図に変わる。
「ーっ!肉は!?」
「勝手に食べていい!」
「あ。おれの分もいいよー」
「マジーー!!?」
えっ!木舌、いいの!?と思わず勢いよくそちらに顔を向けるけど、なんてことないように涼しい横顔がそこにあり、「どうしようか。談話室でも借りる?」と本当に夕飯のことなんて気にしてなさそうに言う。慌てて私も「そうね、うん、そうしよう」とうんうん頷いて、二人で館の中の一室に体を滑り込ませた。
「この手紙なんだけど……」
扉は閉めたからべつに誰にも覗き見なんてされていないと分かっていても、ちょっと周囲を警戒しながら、手紙を取り出す。折れたりしていない、綺麗な状態だ、良かった。木舌は私が取り出したものに少し意外そうな目をした気がしたけど、すぐにいつものにこやかな表情を浮かべて、それを受け取った。「ありがとう」と。その笑顔にちょっとだけちくりとした胸を押さえて、視線を逸らすように足元へ落とした。
「みんなの前で渡すものでもないかな、って思って」
「そっか。うん……ん?」
「べつに木舌がみんなに見せびらかすようなひとじゃないって分かってはいるけど、ほら、周りが騒ぐかもしれないし」
「……うん?うーん」
「なに?」
「いやぁ……の字じゃないなぁと思って」
「え?うん。私が書いた手紙じゃないもの」
「おや」
「え?……あっ!わ、私じゃない!私じゃないから!!あの、大通りのほうにある呉服屋さんの娘さんに頼まれて!!木舌に渡してくれって!!」
たしかに説明が無さすぎたけど、自分のものだと思われたことに焦って、ぶんぶんと首を振って否定する。木舌はそんな私の力いっぱいの否定に、数秒沈黙した後、ふっと脱力したように苦笑した。ああなんだ、そうだったのかぁ、とのんびりした口調で言いながら。
「ごめんよ、てっきりが……おれに何か大事な話があるのかと」
「違うわよ!?そうだとしたら、わざわざ手紙にしないで直接言うもの」
「ははは、たしかにそうだね?うん、そうか……は直接伝えるかぁ」
少し声の大きさを落としたその後ろの方の台詞に、わけもなくドキッとする。きっと木舌に深い意味はないだろうに。「私だったら」を考える。「もしも私が伝えるなら、手紙じゃなくて、直接」だ、と。
「……深い意味は無いから!!私は木舌といつでも会えるし気負わず話せる距離にいるから、その子みたいに手紙をつかわなくてもいいんだって意味で言ったの!」
「はは、うん。分かっているとも」
「ま、まあでもたしかに……あの子にとってはその手紙の内容、大事な話だと思うし」
「そうなのかい?」
「そうよ!酔っ払いに絡まれているところを助けたんでしょう?木舌。そのお礼をきちんと伝えたくって、ってことだったから……と、と~っても優しく寄り添ってくれたんです~って嬉しそうに話してたし!きっと手紙には、ほら、『お礼に今度お食事でもどうですか』とか、『あのときから木舌さんのことが頭から離れず…』とか、そういうことが書いてあるんじゃない?」
「……なるほど」
う、なんかちょっと嫌な言い方だったかな。「みんなの前で渡したらからかわれるかもしれない」で二人きりの場所に移動したのに、私がこんな、ひやかすような言い方して、どうする。自己嫌悪に頭を抱えそうになって俯いて、しばらく沈黙。かさかさと紙を開くような音が聞こえた気がして、ようやく顔を上げると、視線の先では木舌が、私から手渡されたばかりの手紙に目を通していた。ぎょっとする。いや、貰ったのは木舌なんだし、私が何か言うことでもないんだけど。でも、びっくりする。
「い、今この場で読むの!?部屋に戻って誰もいないところで開封したりとか、そういう……」
「ああ、ごめん。いやぁ、たしかにそうだったね。ちょっと配慮に欠けたかな」
「……」
「でも、書いてないよ」
「え?」
「食事のお誘いだとか、そういった告白の言葉は。ただ、とても丁寧にお礼が述べられている手紙だなぁ」
「そ……そう…?」
「うん」
にっこりと、木舌が微笑む。本当に、にっこり。
そのにっこりを見ているうちに、じわじわと顔に熱が集まってくる。勝手に決めつけて、話を大きくして、木舌にも相手の子にも申し訳なくて自分が恥ずかしい。それと、もうひとつ。木舌のそのにっこり具合が、すごく、不思議と……「そんなこと書いてなかったよ。安心した?」って、私に言っているように思えて。
申し訳なさに「ああそうだったんだ、勝手に決めつけてごめんなさい」って謝るべきだと頭では分かっているのに、私は思わずぷいっと顔を背けた。赤くなった顔を見られたくなかった。
「そ、そう!べつに私は最初からそんな、さぐるようなつもりなかったから!木舌が可愛い女の子とご飯に行ったとしても、告白されたとしても、私には関係ないんだし!」
「そうかぁ」
「そうよ!……でも意外ね…書いてないんだ」
手紙を渡すときのあの雰囲気からして、木舌に気がありそうな様子だったけどな。何もそういう…ちょっとした下心みたいなのは無かったんだ、あの手紙に。本当、決めつけて申し訳ない。少し控えめそうな女の子だったし、いきなりそういう誘いを自分からする感じでもない…のかな。そういう誘いって男の方からするものなのかも。手紙を読んで、おっもしかしてこの子自分に気があるのかな?とか思ったりして、男の方から「お手紙ありがとう。よかったら今度お食事でもしながらゆっくり話しませんか?お友達になりませんか?」みたいな……。
そこまで考えて、視線を木舌に向ける。じいっと。木舌は、どうなんだろう。そういうことをするんだろうか。手紙を読んで、何を考えたんだろう。
私の視線に応えるように、木舌も私の目を見ながら、口を開く。「だったら……」
「え?」
「ああ、いや……うーん……がもしおれの立場だったら、どうしてたのかなぁ、と」
「木舌の立場、っていうと……」
「もしそういう手紙を貰ったとしたら、一緒に食事に行ったり、仲良くなってみようかなって思ったりするのかい?」
「それは……」
すぐには答えを口にせずに言い淀んだ私を、木舌が見つめる。目を細めて、にこやかではあるけれど、少し眉を下げて苦笑に近い。そんなふうに聞かれるとは思わなかったし、そんな顔をされるとも思ってなかった。指先を擦り合わせて、視線を少し泳がせる。
「その……気持ちはありがたいと思う。でも、食事に誘われても行かない。断る」
「断る?」
「うん。だって、好きになってあげられないから」
「そうかぁ……随分はっきりしてるね?それをきっかけに好きになる可能性はない?」
「無いと思う。私は他に好きなひとが、……、……」
そこまで口にして、ぴしりと固まる。体が石になる。頭が真っ白になる。数秒置いて、血が通わない石だったはずの体に急激な勢いで血が巡りだし、火が出そうなくらい顔が熱くなった。
ちがう、違う違う、何を言っているんだか、自分は。いや、違わないんだけど、こんなふうに口走るつもり、全然なかったのに。私はパッと、今度は顔を背けるだけでなく木舌に背中を向けて「なんでもない!しらない!」と少し大きな声を出して誤魔化した。
「とにかくきちんと手紙は渡したから!」
「ああ、確かに。届けてくれてありがとう、」
「用事はそれだけ!終わり!木舌と恋愛談義なんてする気ないんだから!」
「それは残念だなあ。おれはのそういう話が聞けて良かったよ」
「は、はあぁ!?どーかしらねっ、木舌の恋愛観なんて!誰にでも優しくするし!そういう気持ち全然わかってくれなさそうですけど!」
「そうかい?こう見えておれも結構……」
「結構、なに!」
「気になる子と二人きりになったら浮かれたり期待したりするんだけどなぁ」
その言葉に、ほとんど無意識に、反射的に、後ろを振り返る。同時に、びくりと足が後ずさりかけた。思ったよりもすぐ近くに、木舌が距離を詰めていたから。流れるような自然さで、木舌は私に目線を合わせるように少し体を傾け、瞳を覗き込んでくる。
「ところで、」
「な…なに?」
「今晩おれと、食事でもどうかな」
「……えっ?」
「ほら。おれたちの分、平腹にとられてしまうみたいだったし」
「え……ああっ!?」
この部屋に来る前、食堂を出たときのやりとりを思い出す。確かに、あの様子だと私と木舌の分の夕飯のメインディッシュは他のひとに渡りそうだ。主に平腹とか、斬島とか田噛とか。でもそんな問題は「そういえばそうだった」程度で、私は突然の提案と、目の前にある木舌の笑顔に、頭がついていかなかった。心臓がうるさい。顔も熱い。畳みかけるように、木舌はにこにこしたまま、「連れて行きたい店があるんだ。料理もお酒も美味しいし、きっとも気に入ると思うなあ」なんて、この距離でさらに言葉を重ねる。
「……いっ…いいけど…」
「本当かい?それは良かった」
変わらずの「にこにこ」だったけど、私の返事を聞いた木舌はもっと口元を緩ませて、ほっとしたように笑った。その笑顔に、ぐ…っと弱いところを突かれたような気持ちになって、落ち着かなくなって、顔も熱くて熱くて、
「着替えてくるっ!!」
と、そう叫ぶように言って部屋を飛び出した。制服じゃないほうがいいもんね、仕事終わりだから着替えた方がいいもんね、何もおかしくなんかないよね!と誰に言うわけでもないのに暗示のように言い聞かせて、次の瞬間には「どうしよう何を着て行こう」の脳内会議で頭はぐちゃぐちゃになった。
「断られないってことは……おれは少し期待してもいいかな?」
そんなふうに呟いて貰った手紙をそっとしまう木舌にも気づかずに、私は自室へ急いだ。