舌には固すぎて


「い…ッ、たい、痛いよ、平腹…、」

 平腹は気紛れに私の部屋に入って来る。今日もその来訪は突然だった。ベッドに寝転がっていた私に、鼻歌混じりに抱きついて、そのままくんくんと肌の匂いを嗅いだかと思えば、首筋を舌でなぞる。それだけなら良かった。あまりよくないけれど、それくらいなら、よかった。そのまま甘い雰囲気になるのであれば、それもまあよかった。けれどその行為の行き着く先はいつも、これだった。耳朶を唇で挟んで、吸い付いていたかと思えば、突然耳元でガリ、と音がした。甘噛みなんてものじゃない。噛み千切るように歯を立てて思い切り、齧る。痛い、と抗議しても、平腹はなかなか離れない。

「平腹、離…ッ痛い!」
「ん?」
「…っね、ぇ…痛いってば…!」

 耳朶を口から離して、ん?と私の顔を至近距離で覗き込む。耳が熱い。唾液で濡れた耳朶がじくじく痛い。痛いのも熱いのも一緒なんだなってぼんやり思う。けどそんな「ぼんやり」は長く続かない。今度は平腹が私の首元に、何の遠慮もなくがぶりと歯を立てたからだ。懲りずに「痛い!」と叫んだ私に構わず、その歯は肌に喰い込み、皮膚を突き破る。痛い、痛い、と何度言っても、平腹は聞いてくれない。血が出た。シーツが汚れる。酷い。痛い。西洋には吸血鬼とかいう怪異が在ると何かで聞いた。女の首元に噛み付いて生き血を啜るらしい。けれど平腹のそれは何か違う。血とか、そういうんじゃなくて。ただ、肉食動物が他の生き物を襲うみたいな感じ。
 あ、そうか、これ、喰われるのか。そう思った瞬間、私は思わず、首元に顔をうずめた平腹の髪の毛を引っ張って、抵抗した。

「やめてって言ってるでしょ!痛い!痛いの!」
「い…って!引っ張んなよ!なにすんだよ!」
「こっちの台詞、」
「いってェなあ!!」

 ガッ、と私の腕が平腹に掴まれた。あ、と思った時にはもう遅い。平腹が、怒っている。怒った平腹には手がつけられないということを知っている私は思わず息を飲んだ。ごめんと謝ってももう彼の耳には届かないのだ。乱暴に引っ張られた私の手首は、力任せに噛み付かれ、色気もへったくれもない悲鳴が部屋に響く。ごりごりと骨が砕かれる様な嫌な音がする。自分の腕が自分の腕じゃなくなる。感覚が失せる。もうその髪を引っ張る事もできない。だって腕が動かせない。痛いよお、痛い、と子どもみたいにぐすぐす泣き出したら、爛々と光る黄色い瞳が私を見た。

「お前が引っ張るからオレだって痛かったし、しょうがねーじゃん」
「…、…」
「なーあー、なんで怒んの?どうせ再生すんだしさー、ちょっと齧ってもよくねぇ?」
「…でも、痛い…」
「あー。そっか。そーだよなー、じゃあどーすっかなー…お!じゃあさ、お前の体ちぎって、そのちぎったほうオレが齧る!多分ちぎれてもお前そのうち元に戻るじゃん?だからいい案じゃね?」
「……」
「んーでもなんかそれじゃつまんねーよなー…どうすりゃいんだろなー。なあ、どうしたらいいと思う?」
「……やめて…」
「なんで?」
「もう、やだ、から…痛いの、嫌なの…」
「やだ」

 淡々と答えただけなのに、その声が酷く冷たく聞こえる。平腹の顔が近付いて、私は怯えるようにきつく目を瞑った。平腹が私の目尻の涙をべろりと舐めとる。けれどその行為に、宥めるとか労るとか、そんな意味は無い。人間の言うところの、愛情、なんて勿論欠片もないのだろう。味を確かめるように、目尻だけでなく閉じた瞼の上にも舌が這う。その瞼の下の目玉の形を舌先で楽しむように、舐める。多分私が目を開けていようとその舌は遠慮なく、眼球を飴玉みたいに舐めていたんだろうな。

「だってお前、いい匂いするし、舐めたら甘いし、齧ってもなんかウマイし」
「…」
「あとお前の体に歯形つけんのおもしれーし!血ィ出んのもおもしれーじゃん?なんでだろ、それ見んの、すげー好き。血なんかみんな出んのにな、なんでだろな」

 そう言いながら、さっき深く噛み付かれたせいで血が流れている首元を平腹が撫でる。かと思えば、その傷口に爪を立てて、ほじくるようにがりがりと指先を動かした。痛い、痛い、と何十回目の抗議の悲鳴を上げても、平腹は顔色一つ変えなかった。

「死なないって便利だよなー。傷も治るもんなー…歯形つけても、噛みちぎっても、治っちまうんだよなー…消えんだよなー、全部…」

 言葉とは裏腹に、便利だ、とはしゃぐ声ではなかった。ほんの少しの陰りがあった。苛立っているのかどうかもよく分からない。けど、何かを惜しむような声だった。寂しがるような、そんな声だった。ひらはら、と弱々しく唇を動かしたら、その声すらもやっぱりか細いものになる。けれど平腹はその声にぴくりと反応した。もう一度、ひらはら、と唇を動かした。けれど、何かを伝えたいようで、何も伝えたい言葉が浮かばなくて、それ以外の言葉は続かない。自身の名前を呼ぶために蠢いた口元を平腹はじぃっと見詰める。食い入るように、見詰める。

「…唇、やわらかそう」

 ぽつりと呟いて、手をのばす。自分の指を押し付けて、押し付ける度に唇に沈む自分の指を見つめて、形を変える私の唇を見て、彼の口元が歪む。子どもみたいに笑う。いつだって平腹は幼い子どもみたいに無邪気だ。楽しいことを見つければ、笑う。自分の気に入らないことに、怒る。彼はいつも、自由だ。それがいつだって恐ろしかった。
 それでも、逃げられない自分は、いつも彼の腕につかまるのだ。どうして逃げられないのか、考えることは諦めた。考えたって何も変わらないからだ。彼を嫌いになれない。この恐ろしい行為に、最終的には抵抗できなくなる。一番恐ろしいのは、そんな自分なのかもしれない。でも、だって、死なないんだもの、私たち。千切れたって再生するんだもの、私たち。あなたの手で死ぬことさえ出来ないんだもの。


「たべていい?」

あなたにマトモに愛してもらうことさえ、できないんだもの。

歯ではやわすぎる