「木舌、まだ帰ってこないの?」
「うーん……任務先でちょっとトラブルがあったみたいで」
「また?」
「あ、でも今回は連絡が途切れたわけじゃないし、ね?少し予定より帰りが遅くなるって」
「……ふうん。そうなの」
だからって、遅い。そろそろ帰ってきてもいい頃なのに。む、と少し口を尖らせて、誰もやってこないエントランスの扉を睨む。今にあの暢気な声の「ただいま」が聞こえそうなものだけど、やっぱり睨み続けても扉が開くことはない。いつぞやの廃校での騒ぎを思い出して、また何か厄介なことに巻き込まれているんじゃないかって思ったけど、そういうわけでもないらしい。執務室から出てきた佐疫を捕まえて「肋角さん、木舌のこと何か言ってた?」って尋ねても、「まだ帰って来られないみたい」ということしかわからない。口を尖らせるのにも疲れて、少し俯いて、しばらく黙り込んでから、はっと佐疫の視線に気付いて顔を上げる。
「木舌のことが心配?」
そう言って笑顔を向けられて、かあーっと恥ずかしくなる。「べつに!心配なんかしてないったら!」思わず少し大きくなった声に、佐疫が軽く謝りながら苦笑いした。
「ほ、ほんとに心配なんかしてないの!べつに木舌の帰りが遅くても私には関係ないんだから!」
「ふふ、そっか。からかってごめんね。
も今日は仕事で疲れたんじゃない?もう部屋で休んだら?」
「……それは…そうだけど…」
「木舌が帰ってきたら、
が心配してたよって俺から伝えておくよ」
「ん……ありがと」
「うん。どういたしまして」
「…………、……じゃなくて!!だから心配なんかしてないって言ってるじゃない!!?」
「あ、そうだった。ごめん、間違えた。そうだね、心配してないんだよね(意地でも認めないんだな…)」
なんだか全然信じてくれてない気がするけど視線を泳がせながらも「そうだったそうだった」って言うので私はそれ以上何も言えずに引き下がる。ちょっと納得いかないけど。これ以上粘ってしつこくしても、余計に佐疫に「やっぱり心配なんだ」と思われる気がして、しぶしぶ部屋に戻ることにした。途中もう一度エントランスの扉を振り返るけど、やっぱり誰もやってこない。無意識に口がへの字になってしまうのに気付いて、ぶんぶん頭を振って誤魔化した。
「……ばか」
拗ねたような情けない声の独り言が零れる。ぜんぶ木舌のせい。ばか。
ぎし、と自分の眠っているベッドが小さく音を立てた気がした。本当に微かな気配だった。相手が音をたてないように気を遣ったのがじゅうぶん分かるくらい。夢と現実の境目みたいな曖昧な感覚の中、重い瞼を持ち上げる。ぼんやりとした輪郭の人影に、寝ぼけた声で呼びかけた。はっきりとわかったわけじゃなくて、ほとんど「そうだったらいい」という願望で。
「……きのした…?」
「おっと。起こしてしまったか。ごめんよ」
ベッドの端に腰かけて、寝ている私を見下ろしていたその人物が申し訳なさそうに苦笑いする。目を擦って、改めて、見上げた。やっぱり木舌だ。手をついて、ゆるゆると体を起こそうとする。本当に起こす気は無くて想定外だったようで、やんわりと「寝てていいよ」と言われたけど、首を振って上半身を起こした。
「帰ってきたの?」
「ついさっきね。佐疫から、
が心配してくれていたって聞いて、部屋に寄ったんだ」
「…そう……」
心配、してないって、言ったのに。佐疫ったら、もう。頭の端っこでそう思いながらも、今更ここで否定しても意味がない気がして、大人しく認めておいた。眠そうな顔が面白いのか、小さく微笑んで木舌が私の髪を撫でる。
「ノックしても返事が無くて、眠ったんだろうなとは思ったんだけど……鍵があいていたから少し心配になって、つい。勝手に入ってごめん。顔が見たくてね」
「…べつに、いいけど」
「……鍵、閉め忘れたのかい?侵入したおれが言うことじゃないけど、寝るときくらいかけないと危ないよ」
「木舌くらいしか、入らないでしょ」
「うーん……まあたしかに。他のみんなのことは疑ってないけど…泥棒とか」
「獄卒の館に入る命知らずな泥棒なんて、なかなかいないもの」
「はは、それもそうか。でも心配だ」
伸ばされた腕に招かれるように、その胸に頭をあずける。わかってる、心配してくれてうれしかった。でも、つい、可愛くない言い方をしてしまう。なんで素直に「心配してくれてありがと」って言えないかな、このくちは。ぎゅ、と指を丸めて、木舌の胸に頭を押し付けたまま、ぼそっと小さくつぶやいた。顔が見えないなら、少しは、声になってくれる。
「木舌が…部屋に来てくれたらいいなって、思ったから」
「……だから、あけといた?」
「…ん」
「そうかぁ……じゃあ、おれはまんまと罠に嵌ってしまったね」
「わ、罠をしかけたわけじゃ…!」
思わずパッと顔を上げたら、ものすごく近い距離に木舌の顔があった。やさしく細められた目に、きゅうっと心臓が悲鳴を上げる。キスされるかもしれないと思ったら、瞼まできゅうっときつく閉じた。なのに降ってきたキスは額に。強張っていた体から力が抜けて、少し恨めしい気持ちで木舌を睨む。唇に、って、誰だって思うでしょ、このタイミングで…!からかわれたような気持ちになるのに、木舌は変わらず穏やかに笑うだけだ。私だけ勝手に期待して私だけ勝手に怒ってるみたい。悔しい。
「ずるい…っ」
「
?」
「なんでもない!おかえりって言ったの!」
「ただいま。心配してくれてありがとう、
」
「……ばか」
「はは、そうだね。今日のおれの仕事ぶりは、褒められたものじゃないなあ。時間をかけすぎたし」
そっと体を離されて、ちょっとくたびれたように苦笑する顔を見上げた。いつでものんびり屋で、へらへらしてて、でもなんだかんだ仕事は上手く立ち回って上司からも頼られている木舌が、そんな表情で仕事の話をするのは珍しい。よっぽど骨の折れる仕事だったらしい。さっきの「ばか」はそういうつもりで言ったわけじゃないのに、なんだか追い打ちをかけてしまったような、申し訳ない気持ちになる。ああ、もう、なんで「ばか」が出るのよ、疲れて帰ってきた相手に言う言葉じゃなかった。どうしたものかとおろおろする私に気付いて、木舌がふっと表情を変えた。いつもの、優しいそれ。いつだってやさしい。こっちが困ってしまうくらいには。
「ごめんごめん、独り言。
にも心配をかけてしまったし、反省しているよ」
「…べつに、謝らなくたって……」
「起こして悪かったね。おれも大人しく部屋で寝ようかな。
の顔も見れたことだし…」
「……」
そんなに今日、大変だったの?そんなに、疲れてるの?……そんなに疲れて、本当ならはやく横になって倒れるように眠りたいくらいなのに、その途中、私の部屋に寄ってくれたの?顔が見たいって、思ってくれたの?声に出して尋ねることはできなくて、だけどきゅうっと胸が苦しくなって、唇を噛んだ。様子を気遣うように名前を呼ばれた直後、ぱっと顔を上げて真っ直ぐ木舌を見る。
「木舌…」
「うん?」
小さくベッドが揺れた。木舌が少し背中を丸めて、私との距離を詰める。覗き込まれて、目が合った。私からも少し距離を詰める。手を伸ばして、普段は見上げるばっかりでなかなか触れることのない、その髪に指先が触れる。えっ、と小さく零れた声を聴きながら、私はその柔らかい髪をそっと撫でた。滅多に見られない驚いた顔をして、木舌が私を見ている。
「…、…
?…なにしてるんだい?」
「なにって……な、撫でてるだけじゃない…」
「……おれの頭を?」
「い…、いやだった?」
木舌の困惑したような声に、失敗だったかなと自分の行動を後悔する。だって、木舌はいっつも私にするじゃない。私が、欲しいときにいつも、優しくしてくれるじゃない。自分も同じようにそのやさしいのをあげたくて、真似たのだけど。こんなふうに他人の頭を撫でたことなんて初めての体験で、何か自分のやり方が違っただろうか、いやそもそも男の人の頭を撫でるって失礼なのかしら、とか、いろいろ考えだしたら止まらなくなって、サーッと一気に青ざめる。
「ご、ごめんなさい!私…っ」
間違えた、絶対間違えた!思わず手を引っ込めようとしたとき、木舌が「いや、そうじゃなくて」と引き留めるような声を出す。しまうにしまえなくなった手を宙に浮かせたまま、木舌の顔を見た。きょとんと目をまたたく。そこにあるのはまた、珍しい表情だった。いつもののんびりとした笑顔とは違う。苦笑い、に近いのかもしれない、困ってしまっているような表情だけど、でも……
「ごめん、嫌なわけじゃないよ。
」
「……え…」
「ただ……なんていうのかな。はは…いつも自分がやっていることなのに、変だなあ…」
「…~っ!な、なによ、その顔っ!」
照れると、そんな顔になるなんて、初めて知った。いっつももっとたくさん恥ずかしいせりふも、恥ずかしいことも、照れずに言うくせに!なんでも平気な顔でするくせに!照れくさそうに頬を掻く木舌に、なんだか思いっきり調子が狂ってしまう。そんなに恥ずかしいことした覚えないのに、自分がものすごく恥ずかしいことしたみたいで。私まで恥ずかしくなってきた。
いや、でも、はっとあることに気付く。いつも私がやられっぱなしで、木舌だけ余裕があってずるい、ってさっきも思ったばかりじゃないか。いい機会じゃない。急にやる気が出てきて、私はもう一度、木舌の頭に手をのせた。なでなで、なでなで、ここぞとばかりにしつこく、入念に。
「たまには木舌も撫でられる側の気持ちを知ればいいのよ。そりゃあ、照れたり恥ずかしかったりするものなんだから」
「はは……そうかあ、参ったな」
「わかったでしょう?私がいつもどんな気持ちか!」
「…そうだね」
「そうでしょう!」
「少し照れるけど……
の撫でる手が気持ち良くて、嬉しい気持ちになるよ。
もおれに撫でられるとき、同じ気持ちかい?」
「っ、え!?」
大袈裟にぎくっとするようについ肩が跳ねた。そんな言葉が返ってくると思わなくて、それまであった余裕がみるみる自分の元から離れていく。その、あの、としどろもどろに誤魔化しながらも、顔が熱い。ふと次に視線をやったとき、木舌の顔はいつも通りの笑顔だった。笑って、いとおしいものを見るように、目を細める。いつもの、やさしいの。ずるい。
「
も、おれがいつもどんな気持ちで
を撫でるのか、わかったのかな」
「……それは…」
答えも聞かずに、木舌が腕を伸ばして、私を抱きしめる。その腕の中で聞こえた、「ありがとう、
」って声が優しくて、ずっと聞いていたいくらい心地よくて、大事にしまうような気持ちで目を閉じた。「……あ、あのね、木舌」おつかれさま、がんばったね、すきだよ、そんなあなたがわたしはだいすき。木舌がいつも私を撫でるときにくれる優しさを、私も少しは伝えられたのかな。伝わってるといいな。
「……部屋…戻らなくても……私のベッド、半分つかっていいけど…」
「…じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「ああでも、鍵はかけようか。誰かに見られたら困るから」そう笑う声に、ばか、って小さくつぶやいて私も少し笑う。くっついて眠りたい。ベッドの中でもう一度、頭を撫でてあげてもいい。
またあの照れた表情を見せてくれるか、わからないけど。
癒され上手な恋人